2015年4月16日木曜日

「科学と差別」(2)についてのフォローアップ

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 先のブログ「『科学と差別』(2)あるいは低線量被ばくの問題について」にいくつかコメントをいただいたので、簡単にお返事しておきたい。



1) いただいたコメントの一部は http://togetter.com/li/807425 のあたりにまとめていただいている。

 さて、水無月さん(@minadukiG)のコメントは重要である。
 
 ただ、これに関しては考慮にいれなかったわけではないのだが、一つには実はそんなに致命的に重要な要素でもないのではないか、とも考えていたこと、また先の記事はあくまで哲学(倫理学)的な基礎づけを意図したものであるのに対して、こういった議論は基本的にフィールドワークが必須の分野だから、という二つの理由で触れなかった。
 まず、その共同体への愛着がリスクへの忌避感を上回れば人はそこに定着するだろうし、極力その意思は尊重すべきである。
 しかし、その「共同体」というものが、果たして「全てありのまま」であることが、そもそも可能なのか、ということである。
 (Twitter には書いたが)現在も日本全国の農村部で過疎化が進行しており、福島第一原発の立地する双葉郡を含めた福島県における、多くの地域も、事故前から程度の差はあれ過疎化の問題を抱えていた。
 そのなかで、原発事故は強力な過疎化要因ではあるが、「過疎化要因」という観点からのみ評価すれば、他の一般的な過疎化要因(経済や交通、医療など)と質的に異なるというわけではないだろう。
 そして、過疎化の進行を憂いる地元住民というのは少なくない一方で、それが原発事故のような極端な二項対立に陥るというケースはないわけである。
 そのため、私の見るところで、これは自発的に起こった自体というよりは、「リスクを《過大評価》する人を非難しても良い」という、過疎化問題一般では起こらない対立のストッパーを、行政や専門家が外してしまった、ということであるように思われる。
図 001
 ただ、一点構造として把握しておかなければいけない特殊性は、意見対立の構造の問題である(ただし、以下にある程度一般化できる形で示すように、これも本来今回特別というわけではない)。
 図示したように、トップダウンの「指示」(フェイズ1)は住民を「納得」派と「不服」派に分割する(フェイズ2)。
 「不服」派は異議を申し立てる(つまり一般的な意味でのアドボカシーを行う、ないし「社会運動」を起こす。フェイズ3)。
 この異議申し立ては、普通は行政の指示には(科学的、社会的、法的、道義的などの理由における)「不備がある」と示唆するものなので、不服派の意図としては政府方針やそれを実施する措置への異議申し立てである。
 ところが、「納得」派からすると、自分たちが支持した(科学的、社会的、法的、道義的などの)「事実」に対する異議申し立てのように見えてしまう。そこで、納得派は不服派の(今回の場合は特に科学的な)事実認識について異議を申し立てる。
 すると不服派からは納得派は行政と一体となっている、あるいは行政を擁護しているように見える、ということになる(フェイズ4)。
 この断絶を解きほぐすための仕掛けというのも、本来、参加型デモクラシーの重要な役割となるであろう。

2)
 また、なぜ「差別」と名指すことが問題なのか、というご指摘もあった(あるいは「忌避の権利」とわざわざ立てることの必要性に関するご批判もあった)。

 大きな問題は、「差別」原理は、言論の自由の例外状況を作り出すということである。
 これは科学でもそれ以外の政治的議論でもそうであるが、ある意見は単体で正統なのではなく、様々な対立意見の中で磨かれてこそ正統性を確立できる、というのが現代の民主国家の大前提である。
 そして、「様々な意見がでる」という状況を作り上げるには「社会的包摂」(ソーシャル・インクルージョン)を重視する必要がある。
 つまり、議論には、様々に異なる利害を持つ人々が、なるべく多様に参加していなけれなければいけないのである。
 例えばある都市交通の問題を考えるのであれば、その議論には男女、年長者から若年層(様々な年齢の子を持つ親)、勤労者や年金生活者、通勤通学者、経済力の異なる様々な住民(特に生活保護層)、障がい者、セクシャル・マイノリティ、マジョリティの言語の読み書きが得意でないもの、などの意見を集約する必要がある、ということである。
 かつては、これが「有産者と労働者の意見を集約すればだいたい問題はない」と思われていたので、政党は有産者と労働者それぞれの意見を代弁する保革で区分されていた。
 ところが、1980年代ぐらいから「あまり大きな資産を持たない労働者であるが、給与所得などについて不満はなく、むしろ環境などの社会問題に関心のある、高学歴高所得層」のような存在が生まれてきて、革新政党がこれらの層の意見を代弁しきれないとみなされたため、欧州で緑の党のような政党が勃興した。
 一度、第三の立場が生まれてしまうと、その後は問題の複雑化は迅速であり、政党政治あるいは、は先に挙げたような立場(ステークホルダー)の多様性に対応できない、とみなされるようになり、「参加型」民主制の必要性が叫ばれるようになる。
 ここで前提となるのは、個別の参加者はそれぞれの多様なバイアスを持っており、それを主張し合うことによって総合的に結論にいたる、ということが重要だということである。

 しかし、こういった状況下で「差別」というのは大きな問題になる。というのは、差別は端的に言って社会的排除(ソーシャル・エクスクルージョン)であり、社会的排除であるということは「社会的包摂」の阻害要因であるからである。
 デモクラシーのためには社会的包摂と言論の自由の両方が必要なのであり、社会的包摂を阻害するような言論(差別的、社会的排除的な言論)は言論の自由の対象ではない。
 そこで、「なるべく幅広いステークホルダーの、幅広い意見(不満と提言)を集める」という目的のためには、なにを差別的言説として言論の場(アリーナ)から排除して、なにを意見として包摂するかは慎重に見極められなければならない。

 さて、こうした「多様な意見」によって理論を切磋琢磨していくという必要性は科学も一緒であると述べた。
 ただし、理念的には「科学」の場合はディシプリンごとに規定された方法論があり、査読誌などの媒体をつかってその方法論に沿ったやりかたで議論を発展させていくことが望ましい。
 一方で、「トランスサイエンス」と呼ばれるような状況では、先に述べたような参加型の方法論を採用し、必ずしも(近代の科学者、政策担当者がいうような意味で)理知的な形で提示されたものでない異議申し立て(以前これを「野生の言説」と呼んだ)も検討の対象にしていかなければならない。
 こういった条件を満たした討議が伴う民主制を「熟議型民主制」という。
 「参加型」であることと「熟議型」であることは矛盾する(参加型は討議への参加の障壁を下げることが条件であり、熟議型は討議にコストがかかるため、参加への障壁をあげる)とする論者もいるが、その一方でこの「参加」と「熟議」は専門家や、専門化したポリシーメーカーから決定のプロセスを民衆に返還するためには相補的に必要になってくるプロセスでもある。

 こうしたプロセスに配慮のない議論は、議論の幅を失う。
 社会心理学ではこれを集団極化(グループ・ポラリゼーション)と呼んだりする。この「極化」のなかで、特にリスクの高い選択をしがちなほうに流れることを社会心理学者ストーナーにならって「リスキー・シフト」と呼ぶ(逆をコーシャス・シフトと呼び、両者を合わせてチョイス・シフトと呼ぶ)。
 リスキーシフトは、アイディンティティや連帯意識を共有しているケース(サンスティン  2012 p.32)や、専門知識を共有している集団(同 p.25)においても見られる。
 逆に、参加者の多様性を向上させるような仕組みをあらかじめ実装しておけば、その話し合いは「中庸化」する(チョイス・シフトが発生しない)といったことが予想される。
 これが十分に実証されているかという点については議論があるが、例えばコンセンサス会議や(原発についても「討論型世論調査」として民主党政権によって行われた)熟議型投票などはそういった前提に従って設計されている。

 集団極化が起こることの問題はいくつかあるが、なかでも一番重要なのが「《まずいこと》を見つける力」である。
 英国の小説家ホレス・ウォルポール「よいことを偶然見つける力」を童話のタイトルから「セレンディピティ」と名付けた。
 科学的発見にはしばしばこういった「セレンディピティ」が重要だとされるが、同様に、「偶然、予想もしなかった問題を見つける力」を、バッド・セレンディピティとでも名付けよう。
 よいセレンディピティには発見者には報酬が与えられる。しかし、バッド・セレンディピティには通常、報酬はあり得ないばかりか、多くの場合は「狼少年」であるかのように扱われることが予想できる。
 しかし、一方で多くの環境問題や公害問題など、社会問題が発覚するにはこのバッド・セレンディピティが必要である。
 あるいは、近年よく口にされる「予防原則」を機能させるには、このバッド・セレンディピティをどう評価するか、ということが大切である。

 さて、このバッド・セレンディピティにとって、集団極化は阻害要因になることは想像に難くない。
 また、集団極化(特にリスキー・シフト)が起こる要因として、価値観を強く共有した集団(例えば同質なアイディンティティを持つ場合や、専門家のみの集団)があるが、例えば生活習慣の違いなどを討議に反映することは、特に重要である。
 ところが現実は、むしろ行政などによってアイディンティティの収斂が強く志向されてしまう。
 災害対応ということを考えれば「絆」のようなキャッチフレーズが使われることは仕方がない面もあるが、その負の側面にももっと配慮が図られてもいい。
 また、地域住民の利害や選好が一枚岩であるかのように表象すること、加えてそれ以外の選好を表明する人を「活動家」や「おかしい人」などの言い方で、あたかも地域住民(例えば「普通の住民」)に該当しないように表象する、という事態が発生していることは憂慮すべきである(ここは是非もう一度、先にあげた図を見ながら考えていただきたい)。
 こういったアイディンティティ・ポリティクスについては、マイノリティ問題を中心に研究が続けられてきたが、実はこのバッド・セレンディピティについても深刻な問題であり得るのである。

3)
 さて、最後に食品に関する規制の問題についても、説明不足の面もあったので追記しておくと、これも基本的には「言論」が重要な役割を担う(これは、これまで論じてきたような問題を被害を受けた「地域」からより広い社会に適応した場合を考えるケーススタディーでもある)。
 また、以下は食品を念頭に置いたリスク管理モデルの考え方について論じるが、基本的にはリスク全般の管理において同じようなことが議論できるはずである。
 当然のことながら、どの値から規制すべきか、といった先験的な基準は存在しない。

 どういうモデルでこれを考えるかというのは色々な考え方があるが、いずれにしてもリスク選好の分布を念頭におく必要はあるだろう。
 リスクの種類にもよるが、自然状態においては、直感的にはリスク選好はある人口の中で標準偏差に近い分布を描くのではなかろうか(これは先の部分の議論にも適用できるのであるが、たぶんリスクの値を対数分布でとり、そのリスクを許容する人口の値をグラフ化する、というイメージで考えるのが良いだろう)。
 そして、これが政府が選んだ規制値を挟んでふた山あるようなグラフになり、相互に批判し合うようになると、これはリスク・コミュニケーションの失敗であろう、ということになるだろう。
 それを避けつつ市場に対応するためのリスク管理は、おそらく人々の意見を慎重に聞きながら規制値を調整していくことであろう。 もちろん、慎重に振れば多くの人の支持は受けられる一方で、リスクの管理コストは増大する。
 そこで、例えば人口のほぼすべてが納得するような厳しい規制値をしくことが経済的に可能であればそれでもいいとして、そうでないときは、たとえば8割の人が納得できる数値に止めると同時に、消費者が選択できるようにラベリングをするといった対策が考えられるであろう(この場合、拒否し難い学校給食などにこの食材を使えば、拒否感情は一気に拡散するであろう)。
 何れにしても単なる数値だけではなく、現在進行しているフェイズに応じた方針をきちんと説明して理解を求めることが、リスク管理者に求められるであろう。

 また、こうしたリスク管理を行うためには当然のことながら、消費者からの有形無形のフィードバックが必要になる。 専門家やポリシーメーカー・サイドが、フィードバックを軽視して最初に決めた規制値に固執したり、フィードバックで要求された情報を出し渋ったりすれば人々はそれを敏感に感じ取るであろう。
 それが、BSE問題や遺伝子組み換え問題についての社会的議論の歴史から我々が学んだことであるはずだが、我々はまだその学習を十分に活かせていないのが残念なところである。     

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