『シン・ゴジラ』感想 備忘録的に…

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ゴジラが東日本大震災(特に津波と原発事故)を意識しているのは明らかである。
 とすれば、ゴジラ(第二形態)の排出する放射線が、法令上問題のない程度だがあえて公表すると言っていたり、(ゴジラの危機が進行中であるにもかかわらず)ゴジラ被害そのものより「風評被害」を憂いてみたり、最後に「ゴジラと共存していかなければならない」と言ったそばからゴジラが排出した新しい放射性物質の半減期が20日程度だったり、と、全体にPA(パブリック・アクセプタンス/公衆受容)を狙った用語建てが多すぎるのは否めないと思う。
 また、解釈次第では原発事故の処理にあたった菅直人政権を賞賛する映画にも見えるが、一方で(後半で重要な役割を担う)若手政治家が「金帰火来」を日常としている野心的な保守政治家と設定されていたり、「もし原発事故が自民党政権時代に起こっており、もっと官僚機構や自衛隊と連携よく行動していたら被害はより小さかったのではないか?」というファンタジーを想起させる面も、やっぱり否めないであろう(そのあたり、菅直人氏の評価も聞きたいところである)。

そういった、現代日本における「政治性」を度外視して、物語の構造それ自体を検討した場合も、オリジナリティが高いといえばそうかもしれないが、それが説得力があるかというと疑問が残る。
 アリストテレス以来の分類では、「悲劇」というのは英雄的な人物が最善を尽くしても運命の皮肉で不幸な結果が訪れるお話であり、「喜劇」というのは凡人がまったく見当違いの行為を繰り返すのにもかかわらず運命の巡りあわせて大団円が訪れる話である(なので、先人が Comedy を「笑劇」ではなく「喜劇」と訳したのは慧眼としか言いようが無い)。
 さて『シン・ゴジラ』は当初、喜劇の様相を見せる。
 登場人物はリーダーシップを発揮せず、決断力にかけ、先例や法令に縛られる人々として描かれる(それを強化するギャグも随所に挿入されるし、登場人物自体もそれを愚痴る)。
 しかし、残念ながらゴジラは平凡な人物たちが右往左往しているうちに朗らかなファンファーレとともに退場してくれるようなシロモノではないことはすぐに明らかになる。

そこでカギを握るのが主人公である矢口(内閣官房副長官)であり、彼は喜劇的な官僚制に対して横紙破りを試みる人物として、当初から描かれる。
 この場合は、普通であれば「英雄的な主人公対その足を引っ張る官僚機構」の対決として描かれるであろうし、それであれば観客は爽快な主人公の活躍に喝采を送る、普通の娯楽映画になる。
 たとえば『踊る大捜査線』(映画版を念頭に置いている)シリーズは「事件は会議室でおきてるんじゃない、現場で起きているんだ」というフレーズが象徴したように、基本的にはそういった物語になっている。
 ただ、『踊る…』も、実際的にお話の筋立ては、主人公だけが活躍しているわけでもないし、官僚機構は主人公の足を引っ張るだけの存在でもない。
 『踊る…』の場合、物語は「現場」を象徴する主人公の青島刑事と「会議室(官僚機構)」を象徴するキャリア官僚の室井の対立という形で推移するが、両者の間の価値観をめぐる相剋と、それを越えたリスペクトや友情のようなものが語られるので、観客は「現場と会議室の対立」の止揚をドラマとして楽しむことができるようになっている。
 一方、『シン』は矢口が同時に現場でもあり官僚機構でもあるため、この両者の対立は人間ドラマとして観客の前に現前させられるということにならないわけである。
 そういう意味では枠組みとしては『シン・ゴジラ』も『踊る…』も内実においてすごく大きな差があるわけではないが、見せ方(演出)として『シン』は主人公と官僚機構が(外部的な契機抜きに)機能的、調和的に動いている側面を強調しているとは言えるのであり、ここにこの作品のメッセージ性を読み取ることはさほど不自然ではないであろう。
 また、矢口を筆頭として設置される巨大不明生物特設災害対策本部のメンバーは、作中で組織の枠にはまらないアウトローの集まりと紹介されるが、どのようにアウトローなのかというのはあまり説得力のある説明はない。
 環境省の尾頭(←無表情系。つまりレイの互換品)に関しては会議の場で矢口同様、空気を読まない発言をするシーンがあるので、それが例外的な「説明」である(また、生物学者の間は高齢の「准教授」というところに多少、学内で疎まれているといったような異端性が表現されているのだろう)。
 異端性が表現されないまま、物語が進むにつれて異端性よりも「組織の中で頑張る」側面が強調されるようになっていく。
 このあたりが、「組織の中では鼻つまみ者だが、一人ひとりが特異な能力をもったチーム」が事件を解決するハリウッド映画とは異なる部分である。
 ただ、矢口を筆頭に、「なぜ彼らが異端なのか、それが組織に協調して働くようになるのはなぜか」という物語が描かれるわけではないので、全体に話の筋立てに納得感が欠けるのではないかと思う。

また、ゴジラは科学技術の負の側面の象徴であるわけだが、それが何故現れるようになったのかも、必ずしも明らかではない(かつて、各国が無責任に核のゴミを海洋投棄していたことの影響を匂わせる部分はあるが、因果関係は曖昧なまま保たれる)。
 ゴジラ対策の強力な武器となる科学技術が、一方で軍事的に悪用もされうる、というのは第一作のゴジラと同様に描かれて入るが、その悩みを表現してみせる科学者(第一作の芹沢博士)の役どころである牧博士は物語が始まったその瞬間にはすでに物語から退場しているため、この「科学技術の正負」というモチーフが人間ドラマとして表現されることはない。
 では、牧の悩みも矢口ら「異端チーム」の背景も描かれない以上、この映画が人間ドラマを描くことを完全に放棄しているかというと、そうでもない。
 例えばアメリカ大統領特使カヨコ・パターソン(←高飛車ツンデレ。つまりアスカの互換品)の祖母が被爆者であることが明かされ「祖国アメリカが、もう一度日本を核攻撃するようなことは避けたい」と述懐するシーンや、そのために彼女が政治的キャリアをリスクに晒すという話が挿入される。
 ただ、例えば先の大戦における「核攻撃」がまさにそのアメリカによって行われたことをどう評価するか、といった議論には物語は立ち入らない。
 全体に、「その事件は誰の責任で起こったか」という視点が希薄であり、その結果として様々な論点が止揚を欠いたまま提示されるだけになっている、という印象を受ける。
 最後の作戦前に、主人公の矢口が参加者を激励するための演説があるが、これもそれまでの物語に伏線があるようななにかがあるわけではなく、演説としては極めて抽象的な一般論に終始しているように見える。

その一方で、パターソンの逸話もそうであるが、全体的に誰もが「責任を回避するため日和見になる」という行動原理を持っていないように見える(「責任を問う」視点がないために、登場人物たちは「責任を問われる」リスクを度外視できるのだ、とも言える。そういう意味では、ゴジラ世界の「アメリカ」はパターソンの「大統領が決定する」というセリフと合わせても「日本とは異なり、説明責任という原理で政治が動いている」という位置づけなのかもしれない)。
 そのため、「官僚機構の愚鈍さ」は「民主的手続きのため」という原理のせいに一元的に帰着させられている(登場人物がその通りのことを述べるシーンが有る)。
 主人公たちはもちろん、首相も、その他の登場人物も、自分の責任に忠実である(第三形態になって動きを止めたゴジラに対する攻撃のチャンスで、首相が攻撃を止めるのは責任回避のためではなく「市民に銃口を向けないため」という哲学に忠実であるため、と説明される。また、作中で明言はされないが、それが「わずかの犠牲を回避しようとして、より大きな犠牲につながっているのではないか。よりマキャベリスティックに決断すべきだったのではないか?」というメッセージを担っているようにも見えなくもない)。

もちろん現実の世界では、官僚制が愚鈍なのは、民主的な手続きのためと同じぐらいかそれ以上に、その構成員が組織の中での自分の利益を最大化し、同時に責任を回避しようとするからである。
 そして、この集合的無責任は現実の原発事故のさいにも遺憾なく発揮された、と国民の多くは感じているだろう。
 作中でアメリカの高官が「危機は日本人すらを成長させるのか」という趣旨のことを述べているが、実際の日本があまり危機で成長する気がしないわけである(作中で主人公が上司である閣僚たちに、戦中に指導者たちが希望的憶測と責任回避を続けた結果、大きな犠牲を出したと述べる部分があるが、それがゴジラによって劇的に変わるとしたら何故なのか、という説明に乏しいように思われる)。

まとめると、前半の筋立ては明らかに喜劇として描かれるが、喜劇で在り続けるにはすぐに登場人物たちの行動が英雄的になりすぎる。
 もちろん純正な喜劇(官僚機構は見当違いの対応を繰り返しているが、それが何故かわらしべ長者的に機能してゴジラの撃退に至る)が怪獣映画に適切なフォーマットであるとは言いがたいであろう。
 では、英雄譚なのか、というと、特定の英雄(ないし『アヴェンジャーズ』のような「英雄チーム」)がいるわけではなく、官僚機構は有機的に機能する。
 では、官僚機構が機能的だという讃歌なのかというと、確かにそれが一番しっくりくるが、しょっぱなの喜劇的な官僚機構から、機能する官僚機構への変化がなだらかに起こりすぎていて面食らわされるわけである。
 しかも「官僚機構が機能する」のは明らかに、そこに所属する面々が責任を取るからなのだが、「責任を取る動機」が(そもそも外部者であるパターソン以外)描かれないので納得感に乏しい。
 もちろん、「日本の官僚機構は有事に対して機能するのだ」という前提だと言われればそのとおりだが、その割には主人公が「歴史的にみて官僚機構が無責任だ」と明示してしまっており、それが覆る根拠は描かれない。
 それでもなお、観客は「いざとなれば日本の官僚機構は責任ある主体として振る舞うはずだ」というファンタジーを観客は共有しているはずだ、そういう観客以外はお呼びではない、と言われている気分にもなるわけである。

例えばパターソンなりが、官僚機構の外部者として振る舞うなかで、(「天使触れるを恐れるところ」を期せずしてか意図的にか踏み抜いてしまい)組織の「やる気」に火をつけるといった演出があると、もう少しエンターテインメントとして納得感のあるものになる気はする。
 あるいは、牧がもう少し「預言者」として神格化され、その残した謎を解いていく中で組織がある方向に引っ張られる、という(アイザック・アシモフのファウンデーション・シリーズ的な)物語も考えられるであろう。
 もちろん、そういったストーリーであればより安心して見られる一方、今回のゴジラのような、観客に強い印象をあたえる映画にはならなかった、ということになるかもしれない。

あと、尾頭さんが(名前だけが)登場するときは課長補佐なのが、会議に参加するときはなぜか「課長代理」に出世しているのは「課長級以上じゃないと閣議に参加できない」とかいう内規が(現実の日本政府にも)有るのかな、とか…。
 いや、もしそういう「しょうもなさ」をきちんとリサーチして反映させているとしたら、その執念は立派だと思う一方で、それと官僚機構礼賛的な後半のギャップはなんなのか、とか(なんか、ダメなものをダメじゃないと言いはるやり方が、正直「普遍的価値を共有する」とか「法の支配」とか「平和と繁栄のなんちゃら」みたいな、ネオコンっぽい自民党政権用語を想起させないか?、という…)。

そんなわけで、「英雄は個人ではなく、責任を取る個人によって構成された官僚制」であり、その機能を阻害するのは「民主主義や少数派に対する配慮」である、という描かれ方や、また「核という技術そのものが両義的であり、それを何とかするために科学者は人間的でもあり英雄的でもある苦悩を引き受けざるをえないことがある」という第一作のモチーフが消し去られていることは、やはり、かなり気にかかるところである。

以下余談。

ゴジラ第二形態の造形の気持ち悪さは大変素晴らしいのだが、間准教授の「個体の中で進化が行われている」には、「いや、それ変態だから。っていうかポケモンか!」と突っ込みたくなったり…。
 あと、怪獣映画としてはゴジラ・フラッシュ!から活動停止までは大迫力でよかったんですが、そのあと「ゴジラ弱すぎね?」という気がして、福島第一原発事故のさいの放水を想起させたいという意図はわかるんだけど、あの倒し方はどうにかならなかったのか、という…。

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