2021年11月21日日曜日

野党が示すべき労働・福祉政策の中での「ポスト核家族」ジェンダーロール

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 ポリティカル・ライターの平河エリ氏と衆議院議員米山隆一氏の間で、次のようなやりとりがあったようである。


 野党の政策の優先順位について米山隆一議員が Twitter で「①経済②福祉③ジェンダー・気候変動だと思います」と述べた。

 この発言は大きな論争を呼んだが、私にはこの米山隆一議員がの発言、「①経済②福祉③ジェンダー・気候変動だと思います」でも不十分であるように思われる。

 現在、立憲民主党の代表選が行われており、ジェンダー問題についても議論が行われているようであるが、その場でも(これは、時間がなくて、あまり深掘りできないという事情は汲むべきであろうが)十分な議論が行われているようには思われない。

 実際は「ジェンダーも気候変動も経済や福祉と密接に関係した問題」なのであり、これらのことを個別に分けて政策化するのではなく、一体として考え、そのことをきちんと有権者にアピールできることが重要である。

 この問題について以下に論じておく。


1. 産業資本主義における「核家族を養う正社員」モデル


 かつてフェミニズムが主張したことは、ジェンダー・ロールは下部構造に大きく左右される、と言うことである。


 日本について言えば、次のような経緯を考える必要がある。

 高度経済成長期の日本は、産業化を進めるために核家族を中心とした社会制度を選択した。

 典型的な「サラリーマン家庭」は大学を出た父親が働き、母親は学歴や能力にかかわらず子育てを中心的に行うものであると考えられた。

 その代わり、企業はこの「男性社員」を優遇した。

 海外の労働組合関係者などとの議論でよく出てくるのは「日本の労働者の企業への忠誠心は突出しているが、一方で日本の企業がその被雇用者をいかに手厚く遇するかと言うことを考えれば、これは必ずしも意外とは言えない面もある」と言うことである。

 特に「一流企業」においては正社員の雇用は高い優先度で守られるのであり、加えて、結婚、マイホームの購入や子どもの進学などについても手当てなどの形での支援が行われることも珍しくなかった。

 ただし、これは「男性が社員になり、女性が家庭を守る」と言う核家族のジェンダーロールを守っていることが前提になる。

 この形式の企業にとっての大きなメリットの一つは、主婦を雇用の調整弁として使えることである。

 共働きであれば、子育て年齢の男性社員を週40時間を超えて労働させることには大きな困難が伴うが、「主婦」が家で子育てや家事全般(その中には男性がスムーズに出社するためにスーツをメンテナンスする、といった雑務も含まれるだろう)を行うという前提で、柔軟に残業を伸ばすことができる。

 業態によっては、さらに繁忙期においては、主婦を一時的なパートとして雇用することも可能である。

 この場合のパート主婦は、すでに夫が生活給を会社から支給されているため、時給自体を安く抑えられるし、雇用の継続も要求しない、都合のいい労働力となる。

 こうして、雇用と核家族の生活給を保証される代わりに残業や転勤などを無制限に受け入れる忠誠心の高い正規労働者としての男性ジェンダーと、柔軟に使い捨てられる非正規雇用としての女性ジェンダーという役割が確立した。

 企業において高い地位を求めれば、この「核家族を養う」というジェンダー・ロールを引き受けるべきだとされた(独身主義や同性愛が忌避された)のもそういった「合理的」理由があるわけである。


 工業化に従って、家父長的な核家族化が進むというのは、実はどの国でも多かれ少なかれ観察される自体であるが、日本(とおそらく韓国・台湾も)は儒教的文化と結びついてこの変容が極めて成功した国であり、その成功が東アジアの経済的躍進を支えていたことは疑いがないだろう。

 本稿で問題にしたいのは、これが成功しているが故に、逆に時代に即した変容が困難になっているという事情である。


2.  小さい政府を正当化するための「日本型福祉」論

 また、この方式は日本政府にとっても福祉予算を抑えるという観点で都合が良かった。

 つまり、サラリーマン層は家族分も合わせて年金などの社会福祉の大きな部分を企業に負担させる。

 そのために、国民が福祉を受けられるのは基本的に「本人ないし家族の誰かが働いている」という状況に依存するのであり、ヨーロッパで一般的な「ナショナル・ミニマム」を保証するという考え方は否定される。

 生活保護のような制度は、極めて例外的で深刻なハンディキャップを持っている人(つまり「本当に困っている人」という右派政治家のクリシェが指し示すような「誰か」)にのみ提供されるのであって、そうでなければ経済的リスクは個人や親族が負う(自助、共助)のである。

 これを自民党は「日本型福祉」と名付けてきた。


 この方式では、優良企業であるほど保護は高い。

 一方で家族経営や小規模事業者であると相対的に福祉のカバーから外れることが増えてくる。

 しかし、家族経営や自営業などは店舗や工場、畑などの生産材を資産として持っているのであり、これを子孫が受け継げる代わりに働けなくなった世代を養うのであるから、問題は小さいと考えられた。

 国民年金の基礎年金部分の給付額はおよそ一人の人間が生きていく上で不十分なのは明らかであるが、前提には国民年金を受給する世帯には住居があり、稼ぎ手である家族が同居していると想定されていたわけである。

 現在のように、非正規労働者が厚生年金の枠から外れ、家もないのに国民年金の基礎年金部分だけを受給する、という状況が多発することは想定されていないわけだが、このことを「想定外だったので修正しよう」という議論が起きていないことが最大の問題であるだろう。

 また、企業間の格差は「学歴による競争」の正当化と相互に強化されていた面が指摘できるだろう。

 もし貴方が10代で熱心に勉強して有名な大学に入学できれば、それは一流企業への入社という形で報われるであろう。

 一方で、そこそこの学歴であれば、そこそこの企業に入り、そこそこの福祉を享受する。

 学歴というのが、能力の証明であり、その能力を生かして企業に(あるいは企業活動を通じて社会に)貢献した褒賞が給与や待遇なのではなく、「勉強を頑張った」ことへの直接的な褒賞が「就職できる企業の格」であり、一度就職してしまえば一定の福祉が保証されると言う考え方は、この「自己責任社会のなかの日本型福祉」の、もう一つの帰結である。

 一方で両親が裕福でもないのに社会保障のしっかりしない職業につく(芸術家を目指したり、研究者を目指したり…)ことはスティグマ化されるわけである。

 近年、大学教育などでは「メンバーシップ型からジョブ型」や「ジェネリックスキル」といった議論が盛んであるが、基本的にこの構造が変わらない限り、「メンバーシップの掟に従うよりも自身のジェネリック・スキルに頼るべきであるようなキャリア」にはスティグマが付与されるわけであり、王道は「安定した企業のレギュラーメンバーになる」ことであり続けるわけである。


3.  「失われた30年」と非正規化政策


 しかし、バブル崩壊後の「人件費削減」圧力の中で、企業は非正規雇用への依存度を高めていく。

 これに答えて、政府与党も規制を緩和し、より多くの業態で派遣労働やパート労働を活用できるようにしていく。

 その象徴として取り沙汰されるのが、小泉純一郎政権による製造業派遣の解禁であるが、これは「規制緩和」という大きな流れの一端に過ぎない(ただし、象徴として取り沙汰されるのは、「技術を持ち高い報酬を支払われる正社員と、その家族のパート」からなる日本の伝統的な製造業社会が大きく変わったからであるだろう)。

 もちろん、企業にとっての非正規化の「旨味」は正社員と違ってこれらの非正規層には雇用の保護などの措置を講じる必要がないとされたことにこそある。

 実際、小泉退陣後の麻生太郎政権時代に起こったリーマンショック(2008年)によって、これら「製造業派遣」は大量に職を失い、それらの人々の越冬支援を提供した「年越し派遣村」は高い注目を集めた。

 元々、役所の閉まる年末年始には社会運動グループなどがホームレスに支援を提供する「越冬闘争」は行われていたが、そういった支援を必要とする人々は高度経済成長の中で徐々に減少し、社会全体から見れば周縁的な問題である、というのが共通理解だったわけだが、これに「派遣村」という非常にキャッチーな名前をつけたこともあって、日本全体が直面する社会問題としてクローズアップされた。

 このことは、2009年の選挙における自民党の歴史的大敗北のきっかけの一つになり、「派遣村」の「村長」であった湯浅誠は新たに発足した鳩山由紀夫政権の参与に就任した。

 しかし、この民主党政権も、政策的にも、そして実態を見ても福祉国家と新自由主義の奇妙なキメラであったし、その政権もわずか三年強で再び自民党に政権を明け渡し、「非正規化」という経済的潮流を覆すには至らなかった。


4. フェミニズム労働論へのバックラッシュ


 さて、こうした中で「昔のジェンダーロール配分が上手くいっていたのなら、我々はうまくやれたのだ」というバックラッシュが、主に非正規化の波に飲み込まれた男性から発生してくるのは自然であるように思われる。

 企業の正社員であることと、「核家族の稼ぎ手」と言うジェンダーロールを引き受けることは密接に結びついているのであり、たとえば企業の現場でセクシャル・ハラスメントが発生するのも、「男性のための空間」を女性が侵食してくることへの防衛という、極めて経済的な活動であり、「性欲」というのはそのために作られた神話である、というのがフェミニズム的な結論である。

 バックラッシュの中でフェミニズム攻撃やハラスメントが「弱者男性の戦術」と見做されるようになっているのは、このことを多くの人が了解しているからであろう。

 しかし実際は、この「正規と非正規の分断」で利益を得ているのは、「弱者男性」よりは経営者や福祉に手を抜ける政府であり、そういった「社会上層」の男性にとっても(あるいは、まさにその層にこそ)ハラスメントを煽る高いインセンティヴがあることも指摘されるべきである。


 しかし、仮にマジョリティがこの「核家族モデル」に回帰することを求めたとして、可能であろうか?

 実際は、核家族モデルはさまざまな層のキャリアモデルとして好ましいものに映る面はあるのであり、「かつての立場」を回復できる「弱者男性」だけがそれを望むわけではないかもしれない。

 競争的な資本主義社会で、労働者として上層を占められるのは僅かな人数であり、普通はどの国でも所得は右肩下がりの曲線を描く。

 であれば、「男性であればほどほどの能力で世帯分の生活給を享受できる」ことと、女性であればそれをシェアできる可能性があるということは「エリートではない」多くの男女にとって、必ずしも魅力がないとは言えないだろう。

 しかし、実際にはそれは極めて困難であろう。

 核家族によって「コアな労働者」と「非正規労働者」が人数的に一対一対応するというのがこのモデルの前提だったわけだが、これは企業活動が拡大期にあることを前提としている。

 新入社員は当初は非正規層と一緒に非熟練労働に従事するかもしれないが、徐々に管理的業務を引き受けるようになり、その分高給になるということが前提されている。

 この方式は、企業の製造能力と売り上げが伸びている時期ならばいいが、成長が止まった段階で、「管理職候補」があぶれてしまうわけである。

 自社の拡大が止まった段階で、利潤を伸ばそうという合理的な戦略が非正規化であるので、なんらかの規制を行わなければこの流れを止めることは難しいだろう。

 また、拡大路線を維持して「核家族正社員」の雇用を続けろ、というのは、大半の企業にとってほぼ不可能であるように思われる。

 こういった経済構造が「正社員を高く保護し、非正規社員を使い捨てる」モデルの限界の直接的な理由である。

 「核家族モデルの放棄」は実際は高度成長の終焉の結果なのであり、「男女共同参画」のような議論は、むしろその正当化に使われているぐらいの認識が、実情に近いであろう。


 一方、政府はその事実を見据えて非正規化を進めながら、「ナショナル・ミニマムという思想は甘えであり、社会にとって有害であり、リスクは個人ないし家族が負うべきである」という立場を、表面的には崩そうとしていない。

 同性婚や夫婦別姓に対して否定的なのも、基本的にはこの「核家族に基づいたジェンダー・ロールに従っていれば、政府がナショナル・ミニマムを提供しなくても、普通の人間は生きていけるものであり、そうでないのは本人に欠陥があるからだ」という(政府の不作為を正当化する)神話を維持したいからだろう。


5. 野党が示すべき労働・福祉政策の中での「ポスト核家族」ジェンダーロール


 従って、労働者と福祉を重視する左派政党の政策としては、この「ポスト核家族モデル」で、全ての国民にナショナル・ミニマムをどう提供するか、ということにフォーカスすべきだということになるだろうが、これは「ジェンダーロール」の問題と密接に結びついている。

 核家族の崩壊は、誰かの不道徳の問題ではなく、我々の社会の下部構造が、もはや核家族を支えられないという問題である。

 そして今必要なことは、「核家族の家長でなく、一流企業に勤めているわけでもなく、子どもに受け継ぐ資産があり、かつそれを守りつつ自分たちの面倒を見てくれる子どもがいるわけでなくても」誰でも生活を維持できるシステムの構築である。

 それは、経済構造の変化の中で非正規雇用しか確保できずに、結果として国民年金しか給付されないであろう男性の問題であるのみならず、そういった立場の女性の問題でもあり、なんらかの事情や属性により核家族を形成しなかった人々の問題でもあり、その他全ての「規格化された人生を歩んでいない人々」、あらゆるマイノリティの問題である。

 従って、ジェンダーロールの問題は同時に経済の問題であり、福祉の問題であるのであり、これに対して、持続可能な対案を提示するのが左派の役割であろう。


 ただ、実際はこれはそう簡単ではない。

 少なくとも「規格化された人生を歩めなかったのは自己責任であり、"本当に困っている"わけではないただの我儘なのだから、自分でどうにかしなさい」と言い切ってしまうよりは遥かに難しいことであろう。

 どのように「同一労働同一賃金」を達成するのか? たとえばジョブ型への雇用の形の変換は可能なのか?  生活を維持できる基礎年金とはいくらなのか? 生活保護と失業保険の間のセイフティネットとして何がありうるか? 何がナショナル・ミニマムなのか? たとえば大学教育、大学院教育はどうか?、等々、様々な検討課題がありうる。

 こうした中で「日本型福祉」という誤魔化しでない福祉国家体制を作り上げることは可能なのか、そのためにはどのような資源、どのような改革が必要なのかを提示できなければ、(まぁ、維新よりはマシだとしても)自民党にかわる政権を作る意義はあるまい。その部分について最優先に取り組んでいただきたいが、そのためには「核家族を作れる標準的な男女」のペアのみを対象とした経済・福祉政策をやめると同時に、ジェンダーロールやセクシャリティのあり方について問い直すことは、避けて通ってはならない課題である。

 左派野党にはこうした問題にこそ取り組んでいただきたいし、それができないなら野党の価値はあるまいと思う。

 



 


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