2021年7月21日水曜日

「性の多様性」に関する問題について: スポーツとトランスジェンダーの問題から考えてみる

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 オリンピックでは、トランスジェンダーのアスリートの出場をめぐって議論になっている。この選手は、「男性ホルモンのテストステロン値が12カ月間にわたり一定以下なら、女子として競技することを認める」というガイドラインの初の適用事例になるはずである。近年、男性と女性の境界線は揺らいでおり、その過程でトランスジェンダーに対する風当たりは強くなっているように見える。アメリカでは、テストステロン値に関する国際的な規定とは別に、共和党の主導によってトランスジェンダーの選手の公的なスポーツ大会への出場を規制する法律が広がっている。アスリートは出生児に女性であったという証明や、遺伝子検査を課されることになる。これらの措置は、(1)倫理的に妥当だろうか? また、(2)実際問題として可能だろうか、ということを考えてみたい。男性と女性がなぜ別れているのか、ということは簡単に答えられる問いではないが、少なくとも「スポーツ大会を公平に運営するため」ではない。この公平さと性やジェンダーの特性が、整合的なものとは限らないが、このことは、あまり認識されていないだろう。

 

 セックス(生物学的性)が決まっているとして、それに対応するジェンダー・ロールを個人として引き受けなければいけない理由はない。女性がセクシャリティや性分業において理不尽なジェンダー・ロールを引き受けざるを得ない状況になっているとすれば、それは社会構造の問題であって、生物学的な性分類はせいぜいその起点になるに過ぎない、というのが現代フェミニズムの前提である。

 分業は生物学的性に基づいた理由があり、かつその分業を取り戻すことで女性の権利向上はできる、という理論もかつて提唱されたことがあったが、これは各国でほぼ駆逐された。日本では、上野千鶴子と青木やよひの間で1980年代に交わされた所謂「エコフェミ論争」がそれである。一般的には、(昨今の風潮とは逆に)双方が誠実に論拠を出し合い、アカデミックな流儀に従って論争を行えば「論破」などということは起こらないものだが、この論争に関しては多くの論者がほぼ一致して「ワンサイド・ゲームに終わった」と認識しており、「生物学的女性性に基づいてジェンダー・ロールが決まり、それを尊重することで女性の権利が向上する」という議論は、ほぼ省みられることがなくなった。

 「エコフェミニズム」という名称そのものは、その後もマリア・ミースらビーレフェルト・グループの議論を指すものとして使用されているが、実際はミースの議論はマルクス主義経済学(特にローザ・ルクセンブルクが発展させた持続的本源的蓄積論)に基づいており、生物学的基盤についての議論においては青木より上野の立場に近いとも言える。

 

 従って、現在のフェミニズムは多かれ少なかれ、次のような立場に立つ。第一に、ジェンダーの二元論的な理解や、その二元論が生物学的なセックスの二元論に基づいているという自然主義を批判する。従って、ジェンダーというのは社会的な構築物であり、それはマジョリティ男性や経済的な支配階層の利害を反映して構築されている。フェミニズムの目指すところは、社会的に押し付けられたジェンダーロールから自由になり、個人の生物学的、文化的、社会的、心理学的とさまざまな多様性を尊重し、自分たちがそれぞれの生き方を選択できるようにすることである。

 この時、「先天的に決まっていること(としての性)」と「後天的に選択されたこと(個々人の自由意志)」という架空の対立が発生する。特に、米国においては「先天的に決まっていること」イコール「神の意思」という考え方が強い。そこで、(欧州ではむしろ保守を表す)「リベラル」という言葉が、急進的な左翼であり、神に定められた社会の秩序を無視する無軌道なアナーキストやヒッピーのような人物(やそれを支持基盤にする政治家)を示すことになるわけである。欧州では「経済的な再分配の是非」が常に政治の焦点であったため、リベラルは「経済的な自立性を重視する右派」を示し、労働者や貧困層への再分配を重視する政治勢力は「ソーシャル」となる。一方、同性愛や中絶のような性道徳が政治論争の中心である米国では、その自由を重視する左派が「リベラル」なのである。

 しかし、重要なのは、この「生まれか、育ちか」という二項対立は、現実を反映していない、杜撰なものであるということである。人間の性というのは実際はは「男女」という範型に当てはめてしまうには、かなり複雑なものである。本論考では、このことについて検討する。

 

 「社会的に規定される性役割と、人間個々人がそこからどの程度自由でありうるか」という問題に関しては、以下の三つの軸がある。

 第一に、基本的には「記述は規範を導けない」という倫理学の初歩を確認する必要がある。第二に、ジェンダー・ロールの大半は文化や社会によって異なり、時代によっても変容する。これらは普遍的な規範を提供するものではない(例えばアフリカを中心によくみられる女性婚の事例を想起すると良いだろう)。第三にに、そもそも生物学的な男女というのも、さほど二元論的で明快なものではない。この最後の問題について、本稿では、これまで日本社会であまり議論されてこなかった視点から議論してみたい。


 そのために、まずアン・ファウスト゠スターリングの議論を振り返ろうと思う。ファウスト゠スターリングは、ニューヨーク生まれのアメリカ人生物学者であり、長くブラウン大学の生物学教授を務めた。またフェミニズム科学論のパイオニアの一人としても知られている。大きな話題を読んだ1993 年の論文「五つの性」("The five sexes")では、人間の性は二つで表すにはたらず、少なくとも五つの分類を想定する必要があるとした。これらの議論は現代社会の二元論的なジェンダー理解に対する強力な批判として話題を集める一方で、性器の形状決定論的にすぎるという批判も浴びた。

 2000年の論文「五つの性再考」("The five sexes, revisited")では、ファウスト゠スターリングはこの批判を受け止めて、さらに議論を進めているように見える。ファウスト゠スターリングによれば性は「男と女の間に連続的に広がっているもの」ですらなく、多元的な空間のどこにプロットされるか、と言ったような問題であると考えるべきなのである。

 以下に同論文の論旨を簡単に説明する。


 ファウスト゠スターリングによれば、なんらかの形で遺伝型(Genotype)上の性別( X及びY染色体で決まる)と表現形(Phenotype)上の性別(性器の形状やホルモンの分泌など)の間に食い違いがある新生児はおよそ1.7パーセントであるとする。(春日による注記: 多くの場合、性分化疾患は5000人に1人程度という数字が挙げられることが多いが、この数字にはクラインフェルター症候群など、「所謂両性具有的な特徴を備えているわけではないが、一般的な性文化と言った意味では例外的である」ケースが含まれていない。ファウスト゠スターリングのあげている数字は、そう言った「遺伝型と表現型の間に、我々が一般的に想定しない食い違いが発生する可能性を生物学的・医学的に備えているケース」の大半を含む。ちなみに「トランスジェンダー」と規定される人々は、米国の統計では0.6パーセントと推計されている)。

 要するに、想定されているより社会的にありふれたものであるはずだが、我々がそれを意識することがないのは、大半の問題は新生児の時に外科手術で「典型的な性」に見えるように矯正されているからである。この矯正に関して、米国の一般的な医師は「外科的にベストな選択」を選べばいいと考えられてきた。これは、心理学者ジョン・マネーらが発展させた原則に従っているからである。マネーはジェンダー・アイディンティティが生後十八ヶ月程度の間は柔軟に変えられると考えていた。マネーは割礼の事故で性器を失った男児の両親に、その子を女性として育てるように勧め、その子どもがマネーの狙い通りドレスを着るのが好きな子に育った例を挙げた。しかし、のちにこの子どもは女性としてのアイディンティティを拒否し、マネーを批判するために名乗りをあげている。他にも多数の性を再指定された人々が名乗りをあげた。

 ローレンス・マカローは「曖昧な生殖器を持つ子どもの治療に関する倫理的フレームワーク」を発表している。マカローは、性の表現型(Sex Phenotype)も、また性表現(Gender Presentation: ある社会の中で個人によって企てられる性的役割)も高度に可変的であるのだから、性の多様性はどれもノーマルだと考えられるべきだとする。これらは統計的な問題に過ぎず、ある種の医学的介入を要する疾患を伴う可能性はあっても、それ自体が疾患であると考えられるべきではない。

 また、マカローは、子どもの性別を割り当てる場合でも、治療者は「不可逆的な(性別の)割り当て」が(例えば、生殖器を除去してしまうと、患者は成長してからそれを取り戻したがるかもしれないのである)最小限であるように配慮すべきだと主張する。マカローによれば、医者は「性器が曖昧な子どもの誕生を社会的あるいは医学的な緊急事態」と捉えないようにすべきなのである。

 ファウスト゠スターリングは「生まれてすぐの性割り当て」は長い旅の始まりに過ぎないと表現する。インターセクシャルとして生まれたある人物は、手術によって女性とされ、一貫してそう育てられた。20代でヘテロセクシャルとして男性と結婚するが、数年後には男性的(ブッチ)レズビアンとしてカミングアウトし、30代では男性になり、レズビアンのパートナーと結婚し、(現代の生殖技術の奇跡を利用して)女の子を出産した。

 かつては、トランスジェンダーであるということは「男の体の中に女の心が閉じ込められ」(あるいはその逆)と言ったような二元論で表現されてきたが、現実はより流動的で多元的なものである。専門家は性を遺伝子レベル、細胞レベル、ホルモンのレベル、解剖学的なレベルで考える。ジェンダー・アイディンティティは、それらの身体的要素から派生し、環境や経験の(我々がほとんど理解できていない複雑な)相互作用の結果として現れる。染色体上は女性で、胎児ホルモンと生殖器の上では男性であるが、女性の思春期ホルモンの影響で、ジェンダー・アイディンティティ上は女性である、ということが起こるかもしれないのである。

 現在、「インターセックスに関する北米タスクフォース」(NAFTI)というグループが専門家や当事者グループの参加をえて活動している。彼らの目標の一つは、インターセックスの新しい命名法を確立することである。

 1995年の第4回「トランスジェンダー法と雇用政策に関する国際会議」で提案された「ジェンダーの権利法案」では「自分の性別を定義する権利」、「希望する場合に自身の身体的性別を変更する権利」、「誰であれ希望する相手と結婚する権利」など十の権利が挙げられている。これらの権利の法的基盤は現実の法廷でも議論され始め、ヴァーモント州の同性パートナーシップ制度などに結実している。


 「五つの性」が執筆されたのはわずか四半世紀前に過ぎないが、その頃から比べると、実は性に関する生物学的・社会的認識は劇的に複雑化している。

 さて、そこでスポーツである。最初にこれが議論になったのは、陸上競技などで極めて高い身体能力を誇る「女性アスリート」がいたことである。個別の事例については部分的にしか情報を得ることはできないし、プライバシーということを考えればそれが正しいのだが、先のファウスト゠スターリングの表現に倣えば、例えば次のようなことが起こっているわけである。おそらく選手Aは「染色体上は男性で、胎児ホルモンは女性であった。このホルモン分泌の影響により生殖器の上では女性であるため、赤子を取り上げた医師は女性であると判断し、そう育てられた。その後、思春期ホルモンは選手Aの体を男性に近づけ、運動能力を向上させた」。この場合、染色体原理主義に従って女性と判断すべきだろうか? おそらく、こういった事例は世界中に多いため、ある日たまたま遺伝子を検査する機会を得た人が、それまでとは逆の性を名乗るように強要されるという事例は増えるだろう。これは倫理的に正しいことだろうか?

 遺伝型原理主義を採用すれば、全ての出生時に遺伝子検査を義務付け、表現型が標準的な「男女」の範型からズレるようであれば早急に適切な手術やホルモン治療などを行い、二元論的な性の枠組みに人為的に回収してしまう、ということも考えられなくはない。しかしこれは、ローレンス・マカローの「倫理フレームワーク」に逆行する決断である。おそらく、実際は性自認の認知的不協和に悩む人はより増えるだろう、とマカローであれば指摘するのではないだろうか。仮にそれが可能であるとしても、当面は先進国だけのことであろう。スポーツの性別の問題が当初は第三世界出身の選手であったことは、これと関係しているだろう。そういった国々では、新生児の生命に関わるようなケアも十分にできない環境も少なくない中で、生命の維持という観点ではどうでも良く、本人や母親の直接的な利益にならない検査を増やすと言うのは非現実的な提案だろう。 

 こうしたことを考えれば、「現段階での特定の性ホルモン濃度」(現在は男性ホルモンであるテストテロンの濃度が利用されている)で区別すると言うのは、合理的とまでは言えないにせよ、妥協案として適切であるように思われる。その場合、「男性アスリートとして中途半端だった選手が、勝利のためにトランスジェンダーを装い、ホルモン療法を活用して女性選手として出場する」のは原理的には避け難い(そこまでして「勝利」に固執する人が本当にいるのかは別の問題として…)。ただ、いずれにしてもどの数値がどの程度個別の競技に有利に働いているのかについてのエヴィデンスは蓄積する必要はあるとして、当面これで行かざるを得ないのではないか。

 ある種の「性の例外」がアスリートにとって有利に働くことはあるだろう。しかしながら、大半の「例外」は、社会がそれを想定していないというだけで社会の中でむしろ不利益を被っているだろう。また、スポーツという意味では、近年は幼少期から練習設備に恵まれた人々(親自身も著名なアスリートか、それなりに裕福で熱心なスポーツのファンであるような…)が著名なアスリートになることが多い。サンデルが大学というメリトクラシーの幻想を批判して話題になったが、同様の議論はスポーツにも向けられるべきかもしれない。もちろん、スポーツの勝利が顕彰されることが、あくまで象徴的な次元に留まるのならば、学歴メリトクラシーに比べて害はない。親の財力や「性の偶然」といったある程度の偶然性に左右されていることは、大した問題ではないだろう。しかし、メダルを背景に政界に進出したり、国際的な競技団体の代表として巨大組織と膨大な予算を支配する、ということになると、単純に見過ごしてもいられない部分も出てくるだろう(競技団体のトップであるためには現役時代に良い成績を収めているべきである、という前提は、有権者の母数を減らし、組織に民主的なチェックが働きにくくなるという面もあるだろう)。我々はまず、スポーツにおける性自認の問題よりも、このアスリートクラシーの問題を、まず議論すべきかもしれない。

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