2020年4月11日土曜日

COVID-19対応に憲法改正は必要ない

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 火事場泥棒とでもいうべきか、新型コロナウィルスによるパンデミックへの対応で、市民の社会・経済活動を抑制する、より強い強制力を発揮するために憲法改正が「極めて重要な課題」であるという発言が、安倍首相自身の口からなされた。報道によれば、日本維新の会の遠藤敬国対委員長に対する回答の中でのものである。Huffington Post が以下のように報じている


遠藤議員の「緊急事態に陥った際、国が国民の生活を規制するに当たって、ある程度の強制力を持つことを担保するにも、憲法改正による緊急事態条項の創設が不可欠だとも考えている」という発言に対し、安倍首相は「憲法改正の具体的な内容等について、私が総理大臣としてこの場でお答えすることは差し控えたい」とした上で、こう続けた。
「あえて申し上げれば、自民党が示した改憲4項目の中にも緊急事態対応が含まれており、大地震等の緊急時において国民の安全を守るため、国家や国民がどのような役割を果たし、国難を乗り越えて行くべきか、そのことを憲法にどのように位置付けるかについては、極めて重く大切な課題であると認識をしております」


 また、パンデミックへの不安の中で、有権者一般や著名人の中からもそう言った発言が出てきてもいるようである。
 これは、日本のパンデミック対応の基本法である「新型インフルエンザ等対策特別措置法」が、欧米の類似の対策と違い、市民に対する直接の影響力を持たず、要請に止まると言ったところによるものがある。例えば、欧米では外出禁止令が実効的な刑罰を伴った措置として施行されており、これを破れば警官に逮捕されるし、罰金や懲役などが貸されることもある。一方、日本でこう言った強制力のない法律での対応を余儀なくされる。





 このことを説明して「日本は、第二次世界大戦の経験から人権を重視しており、市民の自由を束縛するような法律に対する警戒心が高い」と説明するものもいる。しかし、これは錯誤というものであろう。我が国がドイツが行っているような平和・人権教育や、戦争犯罪を自ら記録し、次世代に伝えていこうという気運に溢れている、とは誰も思わないであろう。戦時に植民地の人々を強制的に酷使した記憶を反省していたら、国際的に評判の悪い「技能実習生」制度が何年も続けられるだろうか? そもそも、学校や職場などで、我々は人権を重視したコミュニケーションを他者、特に地位や権威が自分より低い他者としているであろうか? 欧米が人権のユートピアだなどと主張するつもりは全くないが、日本社会に関する多くの観察は「日本において人権が重視されている」という結論を導き出せるものではないだろう。

 そもそも、「人権が重視されていると、強制力を伴う法律ができない」という説明はどの程度事実だろうか? この思い込みは、我々がともすると「公的利益(あるいは公共性)と私的利益」という二元論に陥りがちだ、ということを示すものであり、それ以上のものではない。
 かつて、人間は公共性が私権と対立するものであると考えてきた。同じ社会に生きる人間がそれぞれ勝手に私的利害を主張し始めると、社会は大混乱に陥る。そこで、それらの押さえとして、協力な処罰権をもった「公的権力」が存在する(「王権」というのはそういうことである)。こうしたモデルにおいては、私的利害、私的欲望を抑えてこの公権力の支配に従順に服することが「公共的な振る舞い」として正しいことであり、自分の利害に基づいた主張を行うことは、公共性に反することである。
 しかし、現代ではこうした考え方は誤りである、というのが(少なくともアカデミックには)通説である。公共性が私権や私的利害と独立に存在するのではなく、様々な利害の混合物である。そして、我々が「処罰権を独占する上位者」としての王権を認めず、デモクラシーを採用しているのは、この利害の調整を行うことが「公共性」を実現する道だからである。


 日本の憲法が国家緊急権を認めているかについては諸説あるが、パンデミックが要求するのは、戦争などで「外敵」が名指されるような緊急事態ではない。
 今回の新型コロナウィルスが特徴的なのは、おそらく人によって症状にかなり差があることである。全容はいまだ明らかではないが、劇消化して死に至る人が少なくない一方で、ちょっとした風邪程度の人もたくさんいる。全く症状には現れない人もいると考えられており、科学者によっては症状が出る前の段階からすでに感染者はウィルスを撒き散らしていると考えるものもいる。こういった疫病は、実は極めて厄介である。多分、世界は(論理的にはある程度わかっていても)そのことを実感として理解するのが遅れたのは否定し難いだろう。
 通常、致死率が高い感染症は、あまり広がらない。エボラなどが典型だが、患者は発見・隔離が容易だし、すぐに動けなくなるので、ウィルスはあまり広がることができない。一方、感染力が高く、世界中に広まるような感染症は、普通は致死率はさほど高くならない。伝播力と致死率は通常、ある程度バーターの関係にあるのである。しかし、新型コロナウィルスは感染力が高いだけでなく、症状の出方に大きな差があるのが特徴である。まだ科学的に確定した知見とは言えないが、症状が出ない、健常者と全く変わらない感染者からも、他者に感染させられる量のウィルスが排出されている、という見方もある。


 伝播力と致死率の双方を両立する伝染病があるかという思考実験の一つの結果が(ホラー映画に出てくる)「ゾンビ」ということになる。しばしばゾンビ映画では、ゾンビは何らかのウィルスの感染によることになっているが、このウィルスは宿主を殺した上で、操って次の感染者を作り出そうとする。宿主が死ぬことがウィルスにとって広範囲な行動力を失うことにつながらないわけで、これが最強のウィルスということになる。新型コロナウィルスは、感染者(の一部)が一見健康で、自由に動き回ることによって感染者を増やせる。ゾンビがゾンビであると、ゾンビ自身ですら気がついていない(もちろん悪意も持っていない)わけで、これは我々のSF的想像力の限界を上回った、新しいタイプの「ゾンビ」である。したがって、当然のことながら、殺しておしまいにするわけにはいかないゾンビでもある。むしろ、この奇妙なホラー映画の世界では、ゾンビか人間かを区別する(青白い肌と尖った牙、のような)指標も剥奪され「もしかして自分こそがゾンビの側ではないか」と問い直しを迫られるのである。


 国家緊急権が典型的には戦争であるが、あるいは地震や火山などのような大規模災害への対応が念頭にあるかもしれない。これらは、少なくとも我々のイマジネーションの中では、原因が社会の外部にあり、それに対処することにおいては社会の個々のメンバーの利害は一致する。しかし、(ここでは戦争についての議論は置くとして)実際の災害は多くの場合、もっと複雑である。特に、今回のパンデミックは、先に述べた理由において、もっとも複雑な部類に属する。
 例えば、何らかの事情で、雑踏でナイフを振り回しながら歩いている人がいる。この人は速やかに逮捕されるべきだろうし、何らかの罪に問われるだろう。しかし、ナイフを振り回す意図もなく、振り回していることに気がついてすらいない、という場合はどうだろうか? 犯罪の要件としての有責性を欠くのである。現状、日本を含めたいくつかの法定感染症に感染している場合、国家権力は患者を拘束、隔離することができる。一方、明確に発症していない場合は、普通は拘束することはできない。しかし、新型コロナウィルスのように「あらゆる人が確率論的に危険」である場合はどうだろうか? 例えば危険な場所を法律で侵入禁止にするのと、街を封鎖するのの差はどうだろうか? もちろん、様々に考えなければいけない論点はあるだろう。しかし、すでに新型インフルエンザ等対策特別措置法で隔離などが合法的に行われており、仮に「強制力のあるロックダウン」を行える法律が施行されたとして、そこに決定的な差があって、後者においては必ず憲法問題が生じる、と考える必要があるだろうか?


 もちろん、法律の建て付けによっては、憲法違反まで含めて様々な問題が起こりうる。すでに新型インフル特措法が民主党政権時代の2012年に作られた時から、日弁連などからは人権侵害の懸念が表明されていた
 行政に強力な権限を与える法案で論点とすべきは、(1)問題への対応として威力や期間が必要最低限であること。(2)それによって制限される私権が十分に補填されること。(3)この2点が守られているかについて、民主的及び科学的な「外部評価」があること、である。これらが一つでも保たれていない時に、「政府が独裁的な暴走を始める」恐れがある。国家緊急権が取り沙汰されるような問題というのは、そういうことである。


 しかし、現状で新型コロナウィルスがもたらしているの状況は、むしろこれらを厳格に守る必要がある、ということを示している。というのも、現状は極めてゲーム理論的だからであり、利害を調停するシステムを導入できなければ、万人が合理的に振る舞った結果として社会が崩壊する、というような局面だからである。



 現在の営業や外出の「自粛」は、当然のことながら自粛した人に経済的・社会的不利益をもたらす。企業活動であれば収益は落ちるし、家を出なければ(特に子どもなどの)体力や気力の低下も伴うだろう。しかし、より多くの人が一斉に活動を止めれば、 相対的に短い期間でアウトブレイクの危機が回避できる。一方、自分だけ引きこもっても社会が活動を止めなければ、自分が経済的・社会的に辛いだけで、アウトブレイクの根本的な危機は回避できない。もちろん、引きこもることが可能であれば多少病気の確率は減らすことができるだろうが、仕事を失い、経済的苦境に立たされるという人も少なくなくないであろう。


 そこで「公益というのが、様々な私益の混合物であり、その私益を調整することが政治の役割である」ということを思い出すべきである。そして、この調整機能がなければ、万人は自分にとっての利益が最大になるように動くことで(経済学者が「合成の誤謬」と呼ぶような)破局に至るわけである。
 この破局を回避するためには、全体にとっての最適解を各人が選んだ時に失われる利益を申し立てる必要があるし、申し立てられた結果に応じて最低限の補償を行う仕組みを政治が作る必要がある。そして、もしそれでも抜け駆けが生じるようであれば、それを規制する法律は制定されなければならない。このことは実はすべての行政行為の本質であり、今回の問題に限ったものではない。


 日本社会は、戦後の人権侵害を反省したというよりも、「個々人に権利があり、それを表明し、調停することが公益である」という観点を徹底的に抑圧しようとした、ということだろう。私権に基づく権利請願をすることそれ自体が、社会の欲望と対峙している神聖な「公益」と対立し、それを傷つける行為である、と認識されているということである。もし日本が本当に第二次世界大戦の反省をしていたなら到底出てこないような自民党の改憲案の中でも特に凶悪な、現行憲法13条に規定される「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」という言葉に置き換える、という部分が意味することであろう。実際、自民党は言葉を置き換えた意図を次のように説明している(p.13)。


 街の美観 や性道徳の維持などを人権相互の衝突という点だけで説明するのは困難です。
 今回の改正では、このように意味が曖昧である「公共の福祉」という文言を「公益及 び公の秩序」と改正することにより、その曖昧さの解消を図るとともに、憲法によって 保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを 明らかにしたものです。

 
 強制措置を伴うロックダウンが一般的な行政行為を逸脱するわけではないし、国家緊急権的な人権の制限が、戦争状態においてのみ出現するわけでもない、ということは明らかだろう。


 現在、我々が緊急に目指さなければいけないのは、図1の右下に陥ることを避ける、ということである。そのためには、個々人にとっては右側の「活動する」選択肢を取らないことで、極端で回復可能な不利益を被らないようにしなければならない。このことが満たされたならば、おそらく多くの人は左側「活動しない」選択肢を合理的な選択と考え、実行するだろう。その不利益が保証されるという状態で、一定の逸脱行為を制限することは、必ずしも現行憲法に違反するものではない。一方で、その補償なしに「全体の利益」のために市民活動を制限する権限を与えるような国家緊急権の導入は、それによって多くの人が命を落とすであろうし、依然として危険であり、現段階でも許容すべきではない。

 

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