選挙の結果というのは、選挙の形式に大きく依存する。そして、選挙制度には一長一短があると言われている。例えば、日本がかつて衆議院で選択していたのは中選挙区制であり、各県を複数のブロックに分け、原則として3から5人の議員が選出されることになっていた(実際は人口変動や離島と言う条件などから、最小1から最大6までの定数を持つ選挙区が存在した)。
さて、定数5の選挙区の場合、どのような結果が想定されるだろうか。ある国には、A党がとB党と言う二大政党が政権を争い、それ以外に数党の小規模政党が存在するとしよう。定数5の選挙区では、例えば(A,A,B,B,C)といった結果になることが想定される。あるいはかつての日本のように一つの党が強く、他党はそれに比べて小規模だとすれば(A, A, A, B, C)になるかもしれない。前者のような状況の場合、定数が4になったら(A, A, B, B)になるか、(A, A, B, C)になるだろうし、後者の場合(A, A, A, B)になるかもしれないし、(A, A, B, C)になるかもしれない。いずれにしても、議席数は定数の区切り方に大きく依存する。
また、中選挙区を採用していた当時の日本で問題とされたのは、政治腐敗である。中選挙区の場合、特にトップの政党は複数の候補者が同一選挙区から選出される。この場合、むしろ野党と与党よりも、与党内での争いが大きくなる面があり、かつこの選択は(「政策」は党で一致しているのが建前である以上)政策以外のものでの選択にならざるを得ない。それが「人格」だったり、あるいは取ってくる予算規模だったり、というところが問題とされた。そのため、小選挙区であれば純粋にマニフェスト同士の選択になると考えられ、選挙制度が変更されたわけである。
マニフェストの選択にするのであれば、比例代表制も選択肢である。一般に比例代表のメリットは、有権者が政策での選択にプライオリティをおけることであり、また自分の好む政策を掲げる候補が当選しない、所謂「死に票」が相対的に少なくなることであるとされる。一方で、デメリットとしては、小規模政党が乱立し、第一党でも過半数に遠く及ばない、ということがしばしば発生する。そのため、比例制をとる国では連立政権が基本となり、連立交渉のような「政局」が実際に選択される政策の方向性を決めることになる。この場合、長い政治的混乱が予想されるし、その結果として「政党の構成は国民の関心を反映しているが、連立は数合わせになり、首相は必ずしも国民が望んだ政策を掲げる人物ではない」という事が生じうる。こう言ったことを回避するために、比例制を採用した上で第一党には一定の議席を追加配分するといった補正を行う国も存在する。
逆に、小選挙区制度は、選挙区を細かくわけ、各選挙区から一名のみを選出する方法である。この場合、中選挙区と違い、同じ政党から複数の候補者が擁立されることは(原則として)ないため、純粋にマニフェスト選挙になる。そして、小選挙区制を採用した場合、一般には二大政党制になると考えられている。これはフランスの政治学者モーリス・デュヴェルジェの名前から「デュヴェルジェの法則」と呼ばれるものであるが、候補者の数は原則として定数+1に収束していく、というものである。なぜなら、複数回の選挙を行ううちに、ほとんどの場合は得票の傾向が顕在化していく。ここで5人の中選挙区制を考えてみると、6番手の候補までは選挙戦に残ると考えられるが、7番手以降の政治勢力にとっては、労力をかけて選挙を継続するよりも、6番手以上の候補に協力した方が政策の実現性は高くなる。例えば5番目の候補が5%の得票で最後の一枠を確保しそうであれば、4%の基礎票を握る6番目の候補は、2%の基礎票を持つ7番手以下のいずれかの(一人ないし複数の)候補と交渉が成立すれば、逆転が可能になる。しかし、逆転されそうな候補は、さらに別の下位の候補と交渉し、再度突き放すことを試みるだろう。このような形で交渉は展開し、最終的には5番手と6番手が競い合う形で選挙戦が進行する。
かつて、田中角栄は自由民主党の中で5派閥が争っていたときに、6番目の派閥の立ち上げの動きがあり、この動きの失敗を予言した。というのも、日本の中選挙区制では定数は5までであり、「5派閥」と「野党」でデュヴェルジェの法則に合致する6を埋めてしまっているからである。この逸話は、実質的に五派閥が中選挙区制では政党として機能しており、かつ野党が「全部合わせて1」ぐらいの勢力にしかみなされていなかったことを示唆している。
さて、デュヴェルジェの法則に従えば、小選挙区制において存在できるのは、各選挙区で定数プラス1、すなわち二大政党のみと言うことになる。もちろん、デュヴェルジェの法則が述べているのは、各選挙区ごとに2政党、と言うことであって、その政党が全国的に同じである必要は規定されていない。実際、インドのように各地域では実質的に二大政党制が昨日しているが、州毎に言語や文化の違いが大きいため、基本的には「二つの地域政党」が各地で勢力を持つと言うことはあり得る。ただ、選挙協力体制などを考えると、日本のような言語・文化的な統合が進んだ国では、全国で二つの大政党が競合すると言うことの方が起こりやすいとは言えるだろう。
こうしたことから、小選挙区中心の制度に変えれば、日本でも二大政党制によるマニフェスト選挙が行われるだろう、と考えられたわけである。しかし、依然として自由民主党は圧倒的に強く、ごく例外的な期間を除けば政権政党の座を脅かす勢力は存在してこなかった。これは何故だろうか?
現在の衆議院の定数は465人であり、うち289人が小選挙区で選出され、176人が全国を11にブロック分けした比例代表制で選出される。基本的には首相を選出するには衆議院の過半数を抑えることが前提になり、つまり233議席を獲得する必要がある。これは、比例代表部分を全て獲得してもなお57議席足りないと言うことになり、比例代表制は票が分散しがちであることなどを考えれば、小選挙区部分で大きな勝利を収めない勢力が内閣総理大臣の任命を行える可能性はないといってよい。この意味で確かに日本は小選挙区制を基軸にした選挙制度を持っている。
その一方で、比例区部分も決して小さくはなく(全議席の1/3を超える議席が比例区に割り振られている)、また通常候補者は比例区にも重複立候補し、小選挙区の「惜敗率」によって比例区での復活当選の可能性が高まるため、小規模の政党であってもデュヴェルジェ的「二大政党」以外の候補者に票を投じるインセンティヴを残してしまっている。特に、与党、野党、第三局の三候補が激戦を繰り広げるような選挙区はそれぞれの惜敗率が高まるため、結果的に「一つの小選挙区から三人を国会に送り込む」と言ったことが生じる(これは、当該選挙区の有権者が単純に自分たちの利益だけ考えた場合、特定の候補が圧勝して一人だけが国会に送り込まれるより利益にかなう)。また、比例区部分の選挙運動は規制が大きいため、小規模政党も「比例票の掘り起こし」のために小選挙区に当選の可能性が低い候補を擁立するという戦略も選択される(特に共産党はこれを積極的にやってきた)。このことが日本の選挙を混乱させている。
基本的に小選挙区制は二大政党制に傾く一方で、比例制は小規模政党の乱立に傾く。また、二大政党制の選挙戦略は「有権者の志向の分布を読み、その(人工的にみた)真ん中を見極め、右か左の半分を取りに行く」と言う形になるのに対して、比例での戦略は、政策的に比較的近い政党の支持者を奪う方が楽ということになる。
この前提で今回の選挙を見れば、野党共闘を掲げた候補が選挙区で善戦したのは「有権者を二分して、その左側を取りに行くことを戦略とした二大政党の一つ」と認識されたということに他ならないだろう。デュヴェルジェの法則はゲーム理論的な「合理性に基づく」拘束であるので、よほど他の事情が大きくなければ多くの有権者は(少なくとも「合理的に行動しようとすれば」)小選挙区の中ではこの法則の範囲内で行動せざるを得ない。一方、比例区においては共闘の意味は高くなく、各政党はバラバラに行動する方が合理的である。再度強調するが、比例区においては比較的政策の近い政党の支持者を奪う方が、政策が遠い党と議論してその支持者を奪うよりも合理的である。この結果、第二党である立憲民主党は挑戦者として「有権者の真ん中を探り、その左側全てを奪う」戦略を取らざるを得ず、結果として「右側全て」を狙う自民党と、二大政党制の一つとして争わなければならない。小選挙区の結果を見れば、この戦略は一定の成功を収めており、かつ選挙を繰り返すうちにデュヴェルジェが述べるような原理に従って、この側面は強化されていく事が予想される。
一方で、維新や国民民主党のような「第三局」志向の政党は、比例区での戦略に特化することが合理的である。そして、基本的には、支持基盤が弱い野党側から票を引き抜く方が楽である。国民民主は明らかにそういう戦略を取ってきたし、維新は本質的には大阪で「緊縮と公共サービスの切り下げ」というネオリベラル政策を推進してきた政党だが、総選挙のマニフェストに関しては総合課税やベーシック・インカムなど、左派的な政策を主張していた(ただし、総合課税であるがフラットタックスであり、ベーシック・インカムも他の福祉の大幅な切り下げを伴う、偽装左派的な側面の強いマニフェストではあった)。岸田自民党も、中道に舵をきるサインを出しており(ただし、これも選挙戦の討論の中で、概ね口だけであることが明らかになったと思うが)、「"真ん中"を探る二大政党の闘い」においても、自民党が中間に攻め込んでいた。このことは立憲民主党にとっての、つまり政権を狙う党になるための闘いという意味では難易度が上がったと言えるが、立憲民主党の政策を支持するような有権者にとっては、必ずしも不利益ばかりではない。政策の「重心」は民主党政権崩壊以降、最も左によったと言えるだろう。
さて、こうして考えるならが小選挙区で善戦する選挙区が増えたということは、二大政党制による政権交代を見越した選挙を行う、という小選挙区制の目標に一歩近づいたと言える。もちろん、現在の議席数では政権交代には程遠いことは事実であるが、今後同じ枠組みで選挙を繰り返すなら、デュヴェルジェが主張したように、一種のキャリブレーションが効いていく可能性は決して低くない。問題は、そのために必要な期間、野党側で資金や凝集性が保たれるかということである。このことは政治に関わるものの多くが直感的に知っているから(繰り返すが、これはゲーム理論的な帰結であるため、有権者のイデオロギー構成がどう推移するかとは独立に、他の要素が多くなければ結果は遅かれ早かれ近似していくだろう)「野党共闘は失敗だった」キャンペーンを貼っている面は小さくないと思われる。
その上で、戦術上の小選挙区の要求(有権者の「真ん中」を見極め、その左右で妥協すること)と、比例区での要求(比較的近い思想や勢力の政党から支持者を奪うこと)のバランスを取ることが必要だが、これは至難の業である。一方で、小政党が「二番手」を逆転することも決して容易ではない。「対案」というのは、マニフェストを示し、首班指名に勝つことであれば、もし彼らが本当に「対案」を示したいのであれば、二大政党のうち政策の近い方と連携するしかないはずである。そして、この交渉は中道の小政党にとって基本的には有利であり、左派にとっては不利である。というのも、二大政党制において政策は中道によっていくはずだからである(これも「ビーチのアイスクリーム屋」を例に議論されることが多いゲーム理論的な帰結である)。現状、不利なはずの共産党が交渉に積極的で、有利なはずの国民民主党が「共産党が参加している」というだけで参加に消極的なのは、戦術レベルの合理性があるとは言い難い。このことは変わる余地があるし、立憲・国民両党はそれを変えうるはずである。
ただし、いかに「政治とは妥協である」と言っても、ゲームが成立しなくなるようなルール違反をする政党とは組むべきではないだろう。「戦術レベルのズル(マリーシア)」と、明白なルール違反の間がどこにあるかというのはよく議論すべきだが、これは政治家がというよりはメディアや一般公衆がそれを行うべき領域であろう。こう言ったことが正常化していけば、有権者の投票活動は自然と小選挙区制に順応していくはずである。日本の小選挙区比例代表制というのは、結果の予測が難しく、戦略的投票が困難であり、小規模政党と大政党の戦術のあり方が食い違い、前者と後者の境界が声がたいと言えるだろう。今回の選挙での野党共闘は、野党側を「二大政党制の一角」としての出発点に立たせることに成功したのは疑いないだろう。もちろん、それだけでは不十分で、比例部分での票の獲得を考えなければいけないわけだが、比例部分を重視するあまり小選挙区での成功を捨ててしまうのは馬鹿げている。野党共闘が成功だったかと問われれば、「大成功とは言い難いにせよ、大成功につながる一歩は示せた」と評価されるべきだと思われる。