2016年12月28日水曜日

「証拠を用いた説得に失敗したときに、相手を何が説得できるか?」 by Scientific American

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 アメリカの著名な科学雑誌であるサイエンティフィック・アメリカン誌に「証拠(ファクト)を用いた説得に失敗したときに、相手を何が説得できるか?」と題する記事が掲載されている。
 いかに人々が「ファクト・ベースの」説得では説得されないか(例えば、イラクのフセイン政権は大量破壊兵器を実は保持していなかったという「ファクト」はブッシュ政権を支持した人々を納得させないか)という調査が示されている。
 ただ、「証拠(ファクト)」が失敗したあとの方法論については、筆者の「経験によれば」という記事になっており、若干残念感が否めない。

ただ、その「経験」自体はある程度同意できる者なので、その結論だけここに訳出しておく。
 議論のたたき台としても適当なのではないだろうか。

1. 情報交換で感情的にならないようにしよう
2. 攻撃にならずに、討議になるようにしよう(人身攻撃でなく、ヒトラー視するのでもなく)
3. 注意深く相手の主張を聞き、正確にその主張を言語化してみよう
4. 敬意を持って
5. 誰かがなぜそのような意見を持っているのかについて、あなたがどう考えているか認識しよう
6. 事実認識を変えることが世界観を変えることではない、ということが伝えられるように試みよう

これらの戦略が人々のマインドを変えることに常に成功するというわけではない。
 しかし、この国がポリティカル・ファクト・チェックの絞り上げに疲れている現在、不必要な分断を軽減するのには役立つかもしれない。

2016年12月22日木曜日

「日本にノーベル賞が出なくなる」のは「国立大学に予算がないから」ではなく…: AERA「 頭脳の棺桶・国立大学の荒廃 東大も京大も阪大もスラム化する」ご紹介

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 昨今、国立大学の苦境が伝えられているが、議論は予算についてのものに終止しているように見える。
 しかし、抜本的な問題は、以前「博士はなぜ余るか? 日本の科学技術政策の10年に関する覚え書き」という記事でも述べたように、政策の方針が間違っていることである(リンク先の記事、MovableType を消してしまって文字データだけ残っている状態なので、読みにくくて申し訳ありません)。


 ノーベル賞受賞者たちが「今後、日本でノーベル賞が出なくなるかもしれない」と憂慮しているのを聞くと、ある人は「大学の構造を改革しないと」といい、ある人は「大学にもっとお金をつけなければ」という。
 もちろん、前者に関しては研究者自身から多くの反論が出ている。
 「改革のための費用」(と称するが、実際は組織をなんとか維持してくための費用)を国から交付してもらうために、できもしない「改革プラン」や「中期目標」を捻出することに時間を撮られ過ぎで、肝心の教育も研究も二の次になっている、というのが現在の国立大学の状況だからである。


 一方で、後者については、それはお金はあったらあったほうがいいに決まっているので、研究者たちも表立っては反論しないが、実際はそこは最も重要な点とは言い難い。
 というのも、現在ノーベル賞受賞に至ったような研究がなされた時代は、日本の国立大学がもっとも貧乏だった時代に行われたものであるから、である。
 「昔はよかった」と表現されると、多くの人は(場合によっては言ってる本人すら)錯覚してしまうが、戦後一貫して日本の国立大学は劣悪な環境に苦しんでおり、1990年前後ぐらいにそれはある意味で頂点に達する。

1991年05月28日発売のAeraに掲載された「頭脳の棺桶・国立大学の荒廃 東大も京大も阪大もスラム化する」 という記事は、この状況を明らかにし、日本の科学技術行政に一石を投じることになった(手元に白黒のコピーしかないのでそちらを紹介するが、元記事はフルカラーである)。

2016年12月21日水曜日

資本主義の本質は「リスクをどう裁定するか」の問題であり、奨学金はその手段である (奨学金問題雑感 その2)

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 昨日の記事「教育の受益者は生徒ではなく社会全体であり、給付奨学金は社会的利益のためにある」に続いて、主に経済的側面の問題について。これは二次的な問題であると入ったが、無視して良いわけでもないので…。


NHKが「“奨学金破産”追い詰められる若者と家族」という報道特集をウェブに掲載している(対応する番組があったのかもしれないが、見ていない)。
しかし、タイトルに反して、本質的には「自己破産」が問題ではなく、自己破産できないかもしれないことが問題になるべきであろう(記事は、実際は後半でその問題に触れている)。


「借りたものは返すのが当然」は儒教的な道徳としてはありかもしれないが、「資本主義の倫理」としては合理的ではない。
 これは、奨学金以外でも、あらゆる経済活動について言えることである。

教育の受益者は生徒ではなく社会全体であり、給付奨学金は社会的利益のためにある (奨学金問題雑感 その1)

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給付奨学金について「貧乏でも幸せはある」といっためちゃくちゃな批判も問題だが、「大学に行くことが貧困から脱出する道である」という議論をその批判に当てることも若干の問題がある。
 もちろん、受け手(生徒)の利益になるようなインセンティヴがなければ中々続かないのも確かなので、大学進学の経済的メリットは考える必要があるし、あまりに不利益が大きければ大学という制度そのものが持続的ではなくなるだろう。

しかし、(過去、国際社会に教育の無償化を促された日本政府が度々そう抗弁してきたように)もし教育が生徒の利益のために行われるのであれば、大学教育などは完全に営利企業の手に任せればよいだろうし、そのほうが保護産業として行うよりも高い効率を収めるかもしれない。


2016年12月13日火曜日

ポリティカル・コレクトネスと文化相対主義

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為末大さんの

という発言が批判を読んでいるようである。
 もちろん、私もまったくこの見解に同意できない。
 ポリティカル・コレクトではない、と非難されるような発言は通常、ステレオタイプを押し付けたり誰かを社会的に排除したりといったときに使われるものだからである。
しかし、しばらく後に為末氏は以下のように発言している。

2016年12月1日木曜日

NHK報道 「 原発事故と向き合う高校生 」への疑問: あるいはリスク・コミュニケーション教育はどうあるべきか、について

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 NHKのおはよう日本という番組で「原発事故と向き合う高校生」という特集があったようである。福島高校スーパーサイエンス部の生徒たちが福島第一原発の様子を見学したりする様子が扱われた。これは、NHKのページで確認することができ、また YouTubeにも映像が上がっている(後者に関しては、おそらく著作権法上の問題があるものだと思われる)。
 見ると、様々な疑問が湧いてくる報道である。
 特にその中で地元の幼稚園の保護者に、高校生が遠足のリスクについて説明するシーンが出てくるが、この部分には報道だけでは十分に判断できないが、大きな問題があったように見える。

 これは、この会合が、
・なにを目的にしたものであったろうか?(つまり、会合の目的はインフォームド・コンセントなのか、パブリック・アクセプタンスなのか?)
・その目的は、参加者に十分に周知され、またその意味するところについて(それに必要な準備について)、高校生は十分に指導を受けていたのだろうか?
・これを報道する意味は(特に、高校生と保護者の間の感情の対立を報道する意味は)十分に検討され、それは報道される側の理解を得ていたのだろうか?
 といったことが、十分に説明されていない点からくる疑問である。

 以下に、そのことについて論じるが、まず当該のやり取りをNHKのサイトから引用すると、次のようなものであった(可能であれば映像を確かめてほしい)。

 

2016年11月23日水曜日

アメリカ大統領選挙の「憎悪のトリクル・ダウン」

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トリックル・ダウンというのは「富裕層が経済的に成功すると、その果実が貧困層にも波及し、結果的には社会全体が豊かになる」という論理である。オバマ政権はリーマン・ショック後、アメリカの経済を立て直すことには成功したが、その果実は貧困層には波及しなかった、と非難されることがあり、これが今回、貧困層(特に「ラスト・ベルト」などと呼ばれる、工業化された五大湖周辺州で長く重工業などに従事してきて、伝統的には組合の支持する民主党を支持してきた労働者階層)の一部がトランプに賭けたことが、ヒラリー・クリントンの敗北を招いたと言われている。しかし、トランプが「トリックル・ダウン」させるのは経済的果実ではなく、憎悪である、という議論がある。同じ共和党の重鎮で、2012年には共和党の大統領候補でもあったミット・ロムニーも「憎悪のトリクルダウン」という言葉でトランプを批判している(ただし、選挙終了後ロムニーとトランプは急接近し、国務長官を務めることも噂されている。元々ロムニーはマサチューセッツ州知事時代は中道よりの共和党員として知られ、中絶の権利などにも寛容であったが、大統領選に出馬後は宗教保守派の支持を取り付けるために主張を右傾化したことでも知られ、「定見のない政治家」という評判がある)。

2016年10月6日木曜日

ゲノム編集技術の研究開発・規制に関する質問主意書

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NHGRI-97218.jpg 川田龍平参議院議員と話し合って論点をまとめまして、「ゲノム編集技術の研究開発・規制に関する質問主意書」を出してもらいました。言い回しなどは若干、変更されていますが、だいたい論点は採用してもらっているように思います。
 …あと、蛇足ですが一応言っておくと、問8は私の手を完全に離れたあとにつけ加わったもの(経緯は知らない)のですが、趣旨はいいとして言い回しがちょっと物議を醸しそうではあります。
 来週には答弁が出るかと思います。

2016年9月16日金曜日

小笠原自然文化研究所 i-Bo

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小笠原自然文化研究所が発行する雑誌 i-Bo をご送付いただきました。
しばらく発行がとまっており、ひさびさの発行とのことです。
調査のために、小笠原に滞在していた頃のことを思い出します。

こういった、地域に密着して科学的な研究と活動を行うNPOが一つでも多く、長く活動を続けていってほしいと思っています。
入会の案内などは研究所のウェブサイトから確認できますので、小笠原諸島の自然と文化に関心のある方はぜひ。


2016年9月8日木曜日

二重国籍によって日本国籍も公民権も失われない: 蓮舫氏をめぐる議論について

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蓮舫氏が台湾(中華民国)との二重国籍なのではないか、という問題が話題を集めている。
 この問題に関連して、菅義偉官房長官は「一般論として申し上げれば、外国の国籍と日本の国籍を有する人は、22歳に達するまでにどちらかの国籍を選択する必要があり、選択しない場合は日本の国籍を失うことがあることは承知している」と述べたとの報道もあり、問題は蓮舫氏の議員資格といった枠に収まらない部分に展開している。
 しかし、この菅氏の認識は(排外主義的な現政権の立ち位置をよく表していると思うが)、立法意図に立ち返れば誤認であるし、その誤認が現在二重国籍である、ないし二重国籍の可能性がある人々に少なからぬ恐怖感を与えるであろうことを考えれば、看過できない。

2016年9月7日水曜日

Google は言語ゲームを遊ぶ: 後期ヴィトゲンシュタインはいかに「役に立つ」か?

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最近「役に立つ人文学」というのが論争になっている。これについては、「人文学への「社会的要請」とはどんなものでありうるか?」という投稿で、「経済的貢献」「真善美や人間性の追求」および「カンターサイエンス、あるいは再帰的研究」の三つの可能性を示した。しかし、現実的には人文学的研究がこのどれに役に立つかというのはややこしい問題であり、研究が行われた段階でそれを決定することは難しい。これは自然科学であっても同じことなわけだが、人文学的にもそういうことが言える。事例としてコンピューターの歴史の根幹に関わる数々のノンフィクションを発表してきたジャーナリスト、スティーブン・レヴィの『グーグル ネット覇者の真実』から面白い事例を紹介しよう。

 アミット・シンガルはインドのウッタル・プラデーシュ州出身で、コーネル大学で学位取得後、AT&Tベル研からGoogle に移った検索アルゴリズムの研究者であるが、彼は Google 検索の精度をあげるというプロジェクトに取り組んでいた。ここで問題になるのは、 Google のアルゴリズムはデジタルなもので、通常極めて論理学的な推論方法にしたがって動くのに対して、検索をかけてくるユーザーは、人間らしい「うろ覚え」や「連想」を駆使して自分の求める情報を探そうとする、ということである。このため、人間から見れば(レヴィの上げている事例を使えば)"Gandhi Bio"と入力されれば Bio は Biography (伝記)を指し、"Bio Warfare" と入力されればそれが Biological のことだというのは自明であるが、コンピューターはこういった「文脈から類推する」ことが通常、苦手である、ということになる。レヴィによれば、シンガルはヴィトゲンシュタインの哲学を応用してこの問題を解決した。当該部分を抜き出してみよう。


 グーグルの同義語システムは、犬と子犬はよく似た言葉で、水を沸かすと熱湯になることを理解するようになったが、「ホットドッグ」と「煮える子犬」が同じ意味であると解釈していた。
 この問題は、2002年後半にある画期的な方法によって解決されたとシンガルは語っている。哲学者のウィトゲンシュタインが、言葉は文脈によってどう定義されるかについて論じた理論を応用したのだ。ウェブから何十億もの文書やウェブページを集めて保存する際に、どの言葉同士の意味が近いかを分析。すると「ホットドッグ」は「パン」や「マスタード」や「野球場」といった言葉と同じ検索結果に含まれており、「体毛が焦げた子犬」とはそういう関係にないことがわかった。最終的にグーグルの知識ベースは、ホットドッグを含む数百万語の検索語をどう処理すればいいかを理解した。



 この逸話の面白いところは、Google にとって利用すべきは、前期ヴィトゲンシュタインの哲学ではなく、後期のそれだった、ということである。ヴィトゲンシュタインの哲学は、『論理哲学論考』(以下「論考」)に描かれた前期のそれと、『哲学探究』の後期に大別される。なお、前期の思想から後期の思想への移行の期間を「中期」として分析する(『青色本』など)が、ここでは重要ではないので特に論じない。


 アミット・シンガルがいつの段階でヴィトゲンシュタインの哲学に親しんだか不明だが、前期ヴィトゲンシュタインについては、自然科学の手法についての大きな示唆を含んでいるので(それでも珍しいとは思うが)自然科学者が読み込んでいてもおかしくはないと思う。一方で、後期のヴィトゲンシュタインは前期の思想の不十分さから、より日常生活で我々が行っている言語活動を反映する形で思想を大きく修正し、有名な「言語ゲーム」概念を中核にした思想に至る。こちらは、どちらかと言えば自然科学的であるより、所謂「現代思想的」であり、一見、産業科学に貢献しそうな思想ではない。これをシンガルがどのような経緯で読むにいたり、Google のアルゴリズムに応用するに至ったかは、興味深い問題である(これは「セレンディピティ」の研究、ということになる)。


 ただ、ヴィトゲンシュタイン自身は(先に上げた私の三分類で言えば)後期の思想が経済的価値に貢献するとはまったく考えていなかっただろうと思われる(そもそも彼はそういうことに関心のないタイプの人間である)。彼の思想は後日、ポストモダニズム哲学などから「カウンターサイエンス」に大いに利用されるが、ヴィトゲンシュタイン自身がそういったことに関心を抱いていたわけでもない。純粋に知的好奇心に駆動された思想展開が、21世紀に世界最大級のITヴェンチャーの技術を生み出すと知ったらどう思うかは想像するしかない(そういったことは彼の関心領域ではないかもしれない)。

 前期ヴィトゲンシュタインの思想は、モーリッツ・シュリックらによって発展させられた「論理実証主義」の基盤をなすものして知られる。「論考」において、ヴィトゲンシュタインは言語によって記述されるものが、世界の厳密な写像をなすと主張している。言語によって記述可能なものとは、真偽を確認できる要素命題と、その要素命題をつなぐ論理である。
 例えば「人間は死ぬ」と「ソクラテスは人間である」はそれぞれ真偽が確定できない要素命題であり、「人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。<したがって>ソクラテスは死ぬ」と組み合わせる形式が「論理」である(これは三段論法の一種で、中世のスコラ哲学者たちは「正しい三段論法」を丸暗記したものだが、現代の論理学者はこれを「公理化」し、数学的に扱えるようにしている)。

 論理は先験的(個々の人間の経験如何にかかわらず)に与えられており、要素命題は経験的、直感的に真偽が確定可能なものである、とされる。実証できない命題は「意味が無い」とされる。
 例えば、「神は存在する」といった命題はヴィトゲンシュタインによれば哲学的には「意味が無い」。この思想は、ヴィトゲンシュタインによって基礎が作られ、シュリックら「ウィーン学団」によって、「論理実証主義」こそが自然科学の方法論そのものであると主張された。実際的には、要素命題の事実性というのは、様々なレベルで確定不能であることが指摘され、その修正案としてカール・ポパーによる「反証主義」が提起された。しかしながら、科学の領域における推論の進め方の骨格は、現在でも基本的にはヴィトゲンシュタイン・シュリックが提起したもののなかにある。


 前期ヴィトゲンシュタインの仕事は、科学的とか論理的とはなにか、ということを突き止めようとしたものである。そして、それ以外の部分については「語りえぬもの」として議論の対象から退けている。

 この仕事は、ヒルベルト、フレーゲ、ラッセルと続く<人間の思考の(そしてその対応物としての世界の)公理化>の集大成をなすものである。そのため、ヴィトゲンシュタインの師でもあり、友人でもあったバートランド・ラッセルは彼が前期の思想を捨てて、後期の思想に足を踏み入れたことを次のように嘆いている("My Philosophical Development" から拙訳)。

歴史上、(ヴィトゲンシュタインに)いくらか似ている二人の人物がいる。一人はパスカルで、もうひとりはトルストイである。パスカルは天才的な数学者だったが、敬虔のために数学を放棄した。トルストイは書き手としての天才を、教養ある人間より農民を、他のすべての小説より『アンクル・トムの小屋』を好むような、古臭い人間性の犠牲に捧げた。パスカルが六角形に取り組んだのと同様に、あるいはトルストイが皇帝に取り組んだのと同様に、形而上学的な複雑さに取り組めるヴィトゲンシュタインは、しかし、トルストイが農民の前に品性に富む彼自身を投げ出したのと同様、才能と品性に富む彼自身を常識の前に投げ出したのである。これらは矜持という衝動から行われた。

 バートランド・ラッセル伯爵のちょっと鼻白みたくなるエリート主義がヴィトゲンシュタインを批判しているからといって、逆にヴィトゲンシュタインが人間性にあふれていた、というわけでは勿論ない。ただ、ラッセルの顕著な特徴としては、自身の哲学と道徳的活動の間の関連性が極めて弱いことである。ラッセルは、特に後半生において積極的に政治にコミットした。当初は核への恐怖から先制攻撃論を支持したこともあるが、最終的にはアインシュタインらと共に世界的な反核運動をリードするに至るが、その動機付けと自らの業績としての哲学との関連は薄い。これは、ヴィトゲンシュタインや、ラッセルにとってはヴィトゲンシュタイン以上に重要な共同研究者といえる(主著『数学原理』の共著者である)ホワイトヘッドが自分の生き方のために哲学の構築に突き動かされていたのとは対象的である。


 いずれにせよ、ヴィトゲンシュタインは、このラッセルの言う「常識への屈服」から、超越論的、普遍的な公理系と客観的な観察命題によって記述される、(客観的、科学的な)世界という思想をすて、我々の世界理解は実践の中で構築されるものだという、ポストモダンの源流の一つになる思想に傾斜していく。

 後期ヴィトゲンシュタインは、「論理構造と検証可能な要素命題によって構築される言語が現実世界の対応物であり、それを吟味することで世界のことは明らかになる」という前期の立場を放棄し、日常的な言語の用法の多様性に着目していく。
 例えば、(『探求』の事例を使えば)子どもが「赤いリンゴ5個」と書いてある紙を持って果物屋に買いに行ったとする。果物屋はリンゴの箱のなかから、赤いものを、ひとつ、ふたつ、と五つまで取り出し、代金を受け取ってその子に渡す。この時、我々が果物屋に「何故そんなことをするのか?」と問うことは意味が無い。「赤いリンゴ5個」と書かれた紙を子どもが果物屋に持っていく、という「言語行為」の意味は、『論考』のヴィトゲンシュタインが想定していたのとは違い、まったく慣習的にのみ位置づけられており、そこで「リンゴ」がどのように定義されているか(「リンゴがある」という要素命題がどのように超越論的に規定され、それがどのような手続きで確認されるか、といったこと)には関わりがない。


 我々は日常生活において、超越論的な論理構造によってコミュニケーションをしているわけではなく、その場その場でその局面ごとのルールを学び取っているのである。ヴィトゲンシュタインは、これを、教師時代に子どもたちがたま遊びのルールを都度都度に変更しているにもかかわらず、その遊びの参加者がそれを瞬時に把握し、共有しているさまから発送したという。


 このルールを瞬間的に把握し、反復し、確認する、といったことをヴィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と読んでいる。であるならば、Google 内部のアルゴリズムも、我々が ドッグ と ホットドッグ をどのように使い分けているか、検索をかけているユーザーとの言語ゲームを遊んでいるわけである。ヴィトゲンシュタインは「もし我々がライオンの言葉を話したとしても、我々はライオンのいうことがわからない」と述べている。これは、ライオンと我々では生活形態がまったく異なるために、その心象風景は共有できない、というようなことを述べていると解釈できるだろう。ライオンとそうであると同様、我々は Google と心象風景を共有することはできない。一方で、Google は一定のアルゴリズムにしたがって、我々と言語ゲームを遊ぶことはできるわけである。

おそらく、このあたりが、シンガルを触発した議論であろうと思われるヴィトゲンシュタインの議論の要諦である。すでに述べたとおり、この議論の面白いところは、「実証主義的」な前期の哲学ではなく、よりポストモダン的な後期の哲学が Google の「役に立った」のではないか、というところである。もちろん、それをどう解釈するか、というのは読み手しだいである。ただ、たぶん大半の日本人が抱くであろう解釈は、偏屈なことでも知られたヴィトゲンシュタインを激怒させるであろう。いずれにしても、100年後にどのような技術があり、どのような「学問」がそれに繋がるかというのを予想するのは不可能である。したがって、大学の仕事というのはその裾野を広げることであって、短期的な外部者(特に政財界)の評価を気にすることではないであろう。







2016年9月4日日曜日

「菅直人を逮捕せよ!」

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東日本大震災当時、どのような状況だったか、当時内閣総理大臣補佐官として菅直人首相らとともに対策にあたった寺田学衆議院議員が、手記を公開している。
5年前の記憶の全て : 寺田学のオフィシャルウェブサイト
これまで断片的に出ていた情報と大きな齟齬もないし、びっくりするような新事実もないと思うが、当事者から見た「現実」が時系列で繋がって、ここまでの情報量で提示されたのはありがたい。『シン・ゴジラ』がきっかけのようであるが、それだけでも「作品の力」というのを実感できるのではないか。


2016年8月16日火曜日

『シン・ゴジラ』感想 備忘録的に…

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 シン・ゴジラ見たので備忘録的メモ。
 技術的には素晴らしいと思う。日本映画の貧乏臭さがまったくない。
 お話は、新しいといえば新しいが、納得感に欠けるといえば欠ける。
 何故欠けるか、ということを以下に議論する(ということで、基本的には非難がましい論評になる。また、若干のネタバレを含むので、ご覧になる予定の方はご覧になったあとに、リンク先をお読みいただきたい)。
 「『シン・ゴジラ』感想 備忘録的に…」

 なお、劇場で一回見ただけなので、登場人物の名前、役職、セリフ等の詳細は正確なものではないことをご了承いただきたい。

2016年7月7日木曜日

参議院議員選挙2016 科学技術政策公開質問状

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今回の参議院選挙でも、科学技術研究に関わる論点について、各党に質問状を出している(Science Talks 参議院選挙にむけた各政党への科学技術政策公開 参照)。
 今回は、これまでのサイエンス・サポート・アソシエーション主体から、サイエンス・トークが主体を担うという形式になっている。
 そのためもあって、多少質問の傾向は変わっていると思う(前回までとおなじ質問もある。2014年衆議院選挙 科学技術政策公開質問状 参照)。
 全体を読むのも大変だと思うので、内容を私見に基づいて整理させていただきたいと思う(「自分の目で判断したい』人は是非上記サイトにあたっていただきたい。以下はすべて春日個人の責任に帰する、春日個人の見解である)。

2016年7月5日火曜日

2016参院選 民進党と共産党は大阪と兵庫で投票スワップを

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今週末に迫った参議院選挙で、メディアなどの報道から判断される範囲では、大阪(4人区)は自民、おおさか維新、公明が優勢で、残りの1議席をおおさか維新の二人目、共産、民進で争っている。大阪の最後の議席は、まったく読めない状態だが、民進(現職)と共産(新人)を比較すると、若干共産が先行しているのではないか、という印象を受ける。一方、兵庫選挙区(3人区)では、自民とおおさか維新が優勢で、残りの1議席を公明と民進が争う構図のようで、共産はまったく可能性がないわけではないにせよ、当選範囲から脱落気味、の模様である。そこで今やるべきこととして、大阪の民進党が支持者に共産候補への投票を呼びかける代わりに、兵庫の共産党が支持者に民進への投票を呼びかける、ということがある。

2016年6月1日水曜日

沖縄と福音派教会: あるいは「隣人を理解し、尊重することと批判的になることの両立」という問題について

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米軍属女性遺棄 悲しみに共感 教会に通う米軍人や軍属ら」(琉球新報) という記事にあるとおり、ネイバーフッドチャーチ沖縄の牧師の呼び掛けて、信徒が「沖縄とともに悲しんでいます」といったプラカードを掲げて国道に立った。


 この行為について、背後にタカ派色を強める新興宗教「幸福の科学」がいるのではないかという指摘がある。一方で、それはガセネタで「集会は純粋なものだったので安心してほしい」という反論もあった。これは、両方とも「ある程度は事実で、ある程度は間違い」というべきものであろう。これはまず、アメリカのキリスト教の文脈を理解する必要がある。

2016年5月27日金曜日

原爆投下に関して、日本はアメリカ大統領に謝罪を求めるべきだし、その時に日本としてやらなければいけないこともある

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原子力爆弾の投下について、アメリカ大統領に謝罪を「求めない」ことがよいことだ、という意見があるが、日本はやはりきちんと謝罪を要求すべきだと思う。そして、謝罪を要求できない要因を、我々自身がいくつか抱えているように思われるので、まずそれを是正する努力をすべきである、ということでもある。
 逆に言えば、日本政府が「謝罪を求めない」という態度を取っているのは、おそらく自分たちにも相応の責任が生じることを嫌がっているということであろう。
 しかし、そこを超えずして、第二次世界大戦への真摯な反省の上に平和を希求しているのだ、という「建前」が信用されるはずがあるだろうか?
 安保法制をめぐって、日本政府はそういった趣旨の発言を繰り返したが、現状ではそれは、対外的にはまったく信用されない、空虚な言い訳に過ぎないであろう。

謝罪を求めるべきである理由は、直接的には、被団協のような被害者組織がそれを望んでいる、というだけで十分なはずである。
 もちろん、最終的に日本政府の公式の立場として大統領に謝罪を求めないという結論はあり得るだろうが、被団協のような組織に対して「謝罪を求めるな」という有形無形の圧力がかかっているように見えるのは、奇妙を通り越しておぞましいとしか言いようがない。
 謝罪を求めないことが国家の品格であるという議論まで飛び出したが、「国家の品格」とやらのために個人の自己決定権や尊厳が無視されるような状況があってはならないのである。

謝罪を求めるべきである理由は、直接的には、被団協のような被害者組織がそれを望んでいる、というだけで十分なはずであるが、加えて倫理的な論点も検討してみよう。
 原子力爆弾の投下は二つの理由で明白に、人道に対する罪である。

2016年5月23日月曜日

在外軍事基地と人民主権(Overseas Military Bases and Popular Sovereignty): グローバルに問題を共有するために

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 在外軍事基地問題を抱えるのはもちろん、沖縄だけではない。ここでは、在外軍事基地という言葉で、ある国が、その国とは別の国の主権が存在する国や地域において設置、運営している基地を示す。現在、世界100カ国以上に、千を超える軍事基地や軍関連施設があり、その大半はアメリカ合衆国のものである。他には、イギリス、フランスが多くの海外基地を旧植民地などに所有している。ロシアは、旧ソヴィエト連邦を形成していた地域に海外基地を維持している。インドは、タジキスタンとブータンで基地を運営している。Wikipedia によれば、他に在外軍事基地を有しているのは中国、イタリア、日本、トルコである(日本に関しては、ジブチのものを指している)。

在外軍事基地の問題は、大きく分けて三つ挙げられる。

1) ひとつは、間接的に戦争に加担させられることである。多くの基地は設置国の戦略上の意図を持って設置され、例えばそこから空爆などが行われる。この場合、ホスト国は(意図するか否かにかかわらず)戦争に資源提供などの面で協力させられており、また、自国軍の戦闘参加と異なり、多くの場合は国会承認などの方法による「主権のコントロール」が効かない。日本でも、対テロ戦争の「有志連合」として名前が付け加わっていることが事後的に国会で問題になった。また、このことによりテロの標的としてのリスクが増大するという問題も指摘される。

2016年5月22日日曜日

ノーベル賞は誰が取るのか? 安定、自律、予算

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朝日新聞の記事「ノーベル賞、45歳までの業績が大半」 科学技術白書 の件。
 科学技術白書の分析を読んでみて、やや違和感を感じたので、白書の票を表計算ソフトに突っ込んで、研究が行われた年代でソートしてみた(表計算ソフトでの単純計算なので、誕生日とか勘案していない都合上、前後1年の誤差はあるかもしれません)。
※クリックで大きい表が開きます


こうしてみると、ポイントになるのは白書が述べるような、「全員が20代から30代に任期付きではない安定したポストに就いていた。」という話ではない気がしてくる(片手間に表を作って、それを見ただけの感想なので、実際にこういうことなのかはもう少し調査研究する必要がありますが…。まぁ、メモ程度のものを公開ということで)。

2016年5月21日土曜日

国連持続可能な開発目標(SDGs)の問題点

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サミットに合わせて、日本政府は「持続可能な開発目標(SDGs)推進本部」を発足させた。

国連SDGsは、昨年終了した国連ミレニアム開発目標(MDGs)の後継プロジェクトとして、貧困や感染症の対策目標を定めている。
 もちろん、そこに列挙されたような目標は、全人類が一致して取り組んでいくべきであることに異存はない。
 日本も、そのなかでしかるべき役割を果たすことを、切に望んでいる。
 しかし、一方で、SDGsそのものに問題がないわけではない。
 主要な問題は、MDGsに比べて目標が野心的である(例えば、飢餓を「半減させる」と飢餓を「撲滅する」の難易度は、だいぶ違う)のに比べて、その手段は極めて限られている、ということにある。
 そのため、SDGsは第一にイノベーション志向であり、第二にその財源を民間企業や自由貿易に期待する面が大きすぎる、ということになっているように思われる。
 逆に、現在の世界経済の構造や、債務問題をはじめとしたそれに付随する諸問題、またイノベーションが過去に引き起こした負の影響、といったことへの反省的な観点は極めて弱い。

2016年5月16日月曜日

写真.app で Flickr などにガサッと複数の写真をアップする方法

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おくればせながら、Mac の OS を El Capitanにアップグレード。
 手元のMacの性能から行って、これが最後のアップグレードになるのではないかと…。
 で、さっそく困ったのが、写真.app (Photos.app)の使い方だが、妥協案を思いついたので一応シェア。

iPhoto だと、Flickr と同期することができるのだが、写真.app だと、そういう機能はない上に、Flickr へのアップロードが一枚づつしかできない(複数選択した状態だと Flickr や Facebook が選択肢に現れない)。

で、そういうときは ブラウザ から行けばいいということを発見。

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2016年5月4日水曜日

2008年大統領選の思い出: アメリカ大統領選と科学技術政策

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アメリカ大統領選、共和党の候補がドナルド・トランプというのがほぼ確定という報道にふれて、ふと思い出したこと。2008年にAAAS(全米科学振興協会)の総会を見に行ったのであるが、その年はブッシュ Jrの二期目が終わった次の大統領を選ぶ選挙の年であった。ところが、共和党は2月初頭の最初のスーパー・チューズデイで早々にジョン・マケインに決定。一方、民主党側はクリントンとオバマが激しい選挙戦を繰り広げることになる(この時のマケインの敗因の一つは、決定が早すぎて、その後の全米の関心が「クリントン対オバマ」に持って行かれてしまったことではないか、という気もするわけである)。
 そこで、アメリカだなぁ、と思ったのは、さっそくAAASの総会の臨時企画でクリントン陣営とオバマ陣営の政策討論会を開いたことである。


その時のことは以前ブログに書いたが以下のような感じ。

2016年5月3日火曜日

「自衛隊は合憲である」と主張するための「解釈改憲」などなかった

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この項の簡単なまとめ
・「自衛隊は合憲である」と主張するのに、アクロバティックな解釈改憲があったと歴史を捏造する必要はない
・「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」報告書を素直に読もうとすると「我が国が当事国ではないけど武力行使が自衛に当たる」戦争が出てきたり、正直意味不明である
・集団的自衛権は世界的に、都合よく解釈されすぎである(ただし、手段的安全保障の枠組みがある場合は無意味ではない)
・「世界平和を希求し」それに日本が貢献しようとするなら憲法9条は堅持されなければならない(別の道を選ぶのであれば、きちんと改憲はすべき)


2016年4月30日土曜日

ワクチン・リスクのオフサイドトラップ: なぜ反ワクチン運動が盛り上がるのか?

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※図版(βとβ’の位置関係)が間違っていたので修正し、それに合わせる形で説明の文章も修正しました。
1)
 どの程度のリスクを受け入れるか、ということは人によって違う。最も重要なのは、そのリスクの需要にどの程度の便益を感じるか、という問題である。死んでもいいからタバコの味が好き、ということは(社会的にそれが是認されるかは別として)個人の決断としてはありうるわけである。同様に、自分の趣味で出かけるなら冬山で遭難するリスクは受け入れられるが、業務で登らされるのは御免であるとか、あるいは業務として行うなら受け入れられるが、趣味にはしたくないとか、そういった選択はありうる。
 また、一般に、(不特定多数に)強制されるリスクや誰か(一般には企業)の利益になるリスクは、自然要因のリスクよりも受け入れ難いということは見られる。同様に、自分が積極的に選択するリスクはより高いレベルまで需要される。もちろん、この「強制されている/選択している」は、基本的には主観の問題である。
 したがって、しばしば人は「ワクチンのリスク」(α)を議論するが、実際は「ワクチンのリスク」が「対策すべきリスク」(β)とどのような関係にあるかを議論しなければいけなく、αが科学的に決定される(不確実性を伴うにせよ)のに対して、βは社会的な問題なのである。そのため、βについては語らないことが科学的な態度であるというかのような誤解(あるいは戦略的に「誤解を装うこと」)が専門家の間に見られるが、もちろんβについて論じずにβの値を決めることは、単に自分の臆見を他者に押し付けることに他ならない非合理な態度である。実際、現在専門家が公衆に対して需要を求めている低線量被ばくのリスクは、奇妙に高いが(拙攻参照)、専門家になるほどこのことに「気がついていない(ふりをしている)」ように見える。

2)
 さて、こう考えてみると、「ワクチンは病魔に対して人類が積極的に選択している武器である」と考える人々は、「ワクチンは、学校や職場などで強制される」や「ワクチンの導入は企業の利益によって決まっている」と考える人よりもワクチン接種のリスクに対して寛容になる、ということは考えられる。このため、後者の人々のリスク選好が下方に(より厳しく安全性を確保する方向に)遷移していることに、前者の人々が気がつかない、ということが起こるわけである(図のβがβ'になる)。

2016年4月25日月曜日

G7科学技術大臣会合で語られること、語られるべきこと

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G7茨城・つくばサミットを問う会 第四回講演会で「G7科学技術大臣会合で語られること、語られるべきこと」お話をさせていただきました。

2016年4月15日金曜日

【お知らせ】G7科学技術大臣会合で語られること、語られるべきこと :グローバリゼーションと科学技術

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4月24日に、サミットと科学技術ということで、科学技術大臣会合が行われるつくば市でお話しさせていただきます。

G7科学技術大臣会合で語られること、語られるべきこと :グローバリゼーションと科学技術

2016/04/24 (sun) 14:00-16:30

・茨城県つくば市立吾妻交流センター 和室
(茨城県つくば市吾妻1-10-1、TX線つくば駅前 つくばセンタービル4F Google マップ
・参加費 500円

ちらし(PDF)

詳細は「G7茨城・つくばサミットを問う会」のウェブサイトをご覧ください。

2016年4月12日火曜日

遺伝子組み換え作物が人を殺すとすれば、それは生命特許と貿易自由化の道具として、である

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エコノミスト誌の'Vermont v science: The little state that could kneecap the biotech industry’ という記事に出てくる「栄養失調での年間死者数(五歳以下) 310万人 / 遺伝子組み換え食品による死者 0 人」という図が話題になっている。
そもそも、ここで非難されているアメリカのヴァーモント州は、遺伝子組み換え作物に関する表示についての法律を通しただけであって、別に遺伝子組み換え技術全般の利用を禁止した訳ではない。にもかかわらず「ヴァーモント対科学」というタイトルがついていたりすることに違和感を感じる。人々がある製品を回避しようとする動機は、必ずしも健康へのリスクだけではないのであり、従って健康リスクの問題は表示の是非の問題の一部でしかない。

2016年3月28日月曜日

「平和と脱中心化のためのソフト・エネルギー・パス」のために

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 「核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016」のワークショップ、「クライメート・ジャスティスの観点からCOP21 交渉を、そして原発再稼働を考える」でしゃべらせていただきました。
 当日、このとおりしゃべった訳ではありませんが、発表原稿を公開しておきます。
 他の方の発表は、ATTAC関西のブログに報告が掲載されています(1, 2, 3)。


「 原発のない未来へ!3.26全国大集会 」のデモ

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核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016」の参加者として、「原発のない未来へ!3.26全国大集会」のデモに合流、参加してきました。主催者発表で3,5000人参加、とのことです。
 世界社会フォーラムの創立者の一人として知られ、Right Livelihood Award などを受賞している シコ・ウィタカー 氏らとともに、渋谷の町を歩いてきました。

 ウィタカー氏は80を超える高齢で、持病をおしながらの参加です。自分がこの歳になったときに、健康状態はどうしょうもないとしても、意欲が持続できるのか、と悩まざるを得ません。
 氏は、入国の際にこのフォーラムに関わっているということで、4時間以上拘束され、不当な取り調べを受けたとのことです(日本人として申し訳ない)。入管はこうした取り調べの根拠や理由をいっさい説明しないので、伝聞ですが、背景にはG7にむけた警備強化があるということのようです。しかし、原子力の問題を考える会合のために来日した知識人が、G7の警備強化の一環として長時間の取り調べを受けるということ自体が非民主的で、噴飯ものでしょう。
 福島第一原発事故以降の反原発運動の盛り上がりの中で、原子力技術を支持する人々の中から、その立場を表明すると「第二次世界大戦のときとまったく同じ」非難を受けるという声があがっていますが、少なくとも安倍政権下において、言論に体する様々な統制を受けているのは、依然として反対運動の方でしょう。

2016年3月21日月曜日

「核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016」

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今週、「核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016」が開催されます。
 世界社会フォーラムは、2001年にブラジルのポルト・アレグレ市で最初に開催されたあと、インド、ケニア、チュニジアなどで断続的に開催されてきたイベントです(社会フォーラムについての説明を『平和研究入門』の一章を使って書かせていただきました)。
 元々は、一部のエリートがグローバル化する地球の将来について語り合う「世界経済フォーラム」の対抗イベントとして、「誰でも参加でき、なるべく多くの人が"もうひとつのグローバル化"の可能性について語り合う」という趣旨で開催されました。
 その後、あらゆる問題を話し合う世界フォーラムのほかに、教育など特定のテーマについて議論するテーマ・フォーラム、地域や国ごとに特化したフォーラムなど、様々な形でのフォーラムも開催されるようになりました。
 今回は、この方式の発起人としてしられるブラジルの社会運動家シコ・ウィタカー氏らの提案もあり、日本で福島第一原発事故や原発・核兵器の問題を扱うフォーラムが開催されることになりました。

2016年2月20日土曜日

丸山和也参議院議員の発言が差別的なのは、肝心なところを曖昧にしようとするから

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丸山和也参議院議員のオバマ大統領のルーツに関する発言が議論を呼んでおり、例えばCNNでも”Japanese lawmaker criticized for linking Obama to slaves”と批判的に報道された。
当該部分は「丸山和也・参院議員(自民)「黒人・奴隷がアメリカ大統領になっている」 発言後に陳謝【全文】」で確認できる。

2016年1月13日水曜日

「荒れる成人式」と議員定数

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今年も成人式で暴れる新成人がおり、産經新聞などがうれしそうに批判していた水戸市のケースでは以下のように報道されている(DQNというネットスラングを持ちいて報道する産経さんの方が遥かに品がないと思うが…)。


一部の新成人らがマイクを取り上げ、「おめえがあいさつしてんじゃねえ、このやろー」「なめんじゃねーよ」「みんな、よろしく~」「盛り上がっていこうぜ」などと拡声器で叫びながら、警備員の阻止を振り切ってステージに上がり、妨害行為に出た。

警備員らによって下ろされた後、古谷さんは誓いの言葉を続行し、「僕が話すことが気に入らない方もいると思います。みなさん、しっかりと成人としての自覚をもち、これから社会人としてはばたいていきましょう」と反撃。すると、ステージの下からは「てめーが代表じゃねえ、このやろー」などの罵声が飛んだ。

新成人代表の返しも中々立派だと思うが、「暴れた」側も成人式の代表権やオーナーシップの問題に抗議していて、なかなか立派であると思う。こういった異議申し立ては、問題の重要性や主張の合理性というのは議論されたらよいが、それをするということの重要性においては、例えば若者が安保法制に対して異議申し立てをする、ということと、なんら変わらない訳である。もちろん「荒れる新成人もSEALDSの若者も嫌い」という層もいることであろうが、それは端的にいって「自由からの逃走」であろう。
 朝日新聞に掲載された論考の中で、作家中村文則氏が「俺は国がやることに反対したりしない。だから国が俺を守るのはわかるけど、国がやることに反対している奴(やつ)らの人権をなぜ国が守らなければならない?」と言われたという経験を書いている。
 もちろん、そもそも反対する権利があるから「反対しない」(/支持する)という「自由意志に基づく決断」が可能になる訳であり、そこを見つめないことは「自由からの逃走」である。
 これは、問題になっている議論の重要性とは関わりなく妥当する話である。

2016年1月8日金曜日

「科学論は科学とはなにかを決められるのか?」、あるいは科学の「線引き」という問題について

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科学的とはなにかということについては、多々議論がある。今の所、最も広く支持されている見解は、「反証可能性を満たしていれば科学的と言える
ということである。これは、オーストリア出身の科学哲学者、カール・ポパーの主張したことで、「反証主義」と呼ばれる。

2016年1月1日金曜日

あけましておめでとうございます

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