2015年4月30日木曜日
『世界の手触り: フィールド哲学入門』
(※写真は退職記念パーティの日ですが、ご本人のいい写真が iPhone の中になかったので、とりあえず総長のご挨拶シーンを…)
2015年4月27日月曜日
『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』 の「反ナショナリズム」批判について
「すごい日本」ブーム…底流には何が? (web魚拓) という記事がある。
ここに萱野稔人津田塾大教授ら2名の識者がコメントを寄せているが、実質的に「すごい日本ブーム」批判を批判する内容になっている。通常、こういったメディアが二人の識者からコメントを取る場合、立場のことなる人を掲載するものであるが、今回は読売新聞の意図は明白であろう。
また先崎彰容東日本国際大教授は、「すごい日本ブーム」批判に対して、
ともすれば、他国への批判や罵詈ばり雑言も目立つのは、そのためだ。一方で日本肯定と同じぐらい、日本や権力を否定する言説も目につく。一見、対立するようだが、同じく精神の不安を表している。不安だからこそ、過激な主張を声高に叫ぶのだ。
と述べ、「すごい日本」ブーム批判も自国批判もどちらも「同じく精神の不安を表している」のだという見解を述べているが、萱野氏は「自己を肯定したい気持ちは根本的なもので、個人にも国にも、普遍的に存在する」と「すごい日本」ブームを肯定する一方で、批判する側には、「「自分は、日本を自画自賛するような価値観を超越している人間だ」という、ゆがんだ自己肯定があるように感じる。このように自己肯定の気持ちは知識人も乗り越えられない。批判する欺瞞に気づいた方がいい。」と、「すごい日本」ブーム批判は「ゆがんだ自己肯定」であるという。
日本を肯定することは「すなおな自己肯定」で、それに反省的になると「ゆがんだ自己肯定」とは、反省(Reflexivity)を基盤とする近代哲学の総否定であるように思われるが、萱野氏にとってはこれは健全な批判ということになるのだろうか。
もちろん、これは新聞記事のコメントなので、編集などが入り、本人の意思を十分に反映していない文章になっている可能性も否定できない。
しかしながら、萱野氏は同じような議論を著書 でも展開しており、これが単なる編集の結果でないことは明らかであるように思われる。 ここで、氏の著書について検討をするなかで、そのことについて考えてみたい。
2015年4月25日土曜日
選挙カーと、議員報酬と、政策提言のコスト、という話。
「街中を走る選挙カーは政策を説明しないで、名前やキャッチフレーズを連呼するだけでけしからん!」とお怒りの方も多いようですが、あれ、政策を説明しだすと違法ですから(「連呼行為」は合法)→ pic.twitter.com/VMbr5IzKvP
— sho kasuga (@skasuga)
2015, 4月 21
ただ、実のことを言うと、こればっかり Retweet されるのは非常に違和感があって、本当に注目してほしい Tweet はこちら
公職選挙法は、独特すぎてそれ自体が参入障壁になってしまっていて、そうすると現職の議員からは変えづらいので、変えるぞという社会運動を大規模に起こすとか、なんかそういうことが必要であるように思う。憲法変えるより公職選挙法変えるほうが先だよね。
— sho kasuga (@skasuga)
2015, 4月 21
特に、そのあとの会話にもある通り、高額な供託金の改定がキモであろう。
また加藤良太氏の
折しも統一地方選中。現在の公選法に起因する高い供託金、選挙カーによる街宣等々、既存の選挙スタイルへの批判も少なくないが、その動機が単に「高い、うるさい、めんどくさい」だけなら、それを改めたところで、ますます政治参加は空洞化するんだろうなぁ…政治はもともとめんどくさい。
— KATO Ryota 加藤良太 (@ryotak)
2015, 4月 22
は我が意を得たりのコメントで、政治に関して政治家が発信する情報を受け取るだけではなく、自分たちで発信していく、という文化をつくれなければ、単純に選挙カーを廃止してどうこうなるというものでもなかろう、と思う。
もちろん、異質なものは「煩い」 のである。
逆に、自分の生活に関係があると思っているものに対しては「煩い」判定の閾値は上がる。
選挙に行くような高齢者が選挙カーをあまり問題にせず(昨日握手した相手の名前が聞こえるのは、あまり気にならないものである)、政治に距離を感じている(従って投票率が低い)層が選挙カーを煩いと思うのはいわば当然である。
選挙カーに対して消極的なサボタージュ(五月蝿い候補にはいれない) ではおそらく十分ではなくて、自分にとって支持できる候補者を作っていかないと、なかなか古い政治、古い選挙活動からは脱却できないだろうな、ということ。
2015年4月19日日曜日
「被災者(被害者)」の多様性に配慮を払うこと、あるいは二重三重の被害者、ということについて
【連載・第1回】震災報道で気づいた「放置される性虐待」~若年女性の“見えない傷”と「レジリエンス」
についたコメントがなんとも辛い。
一応、連載の三回目まで読んだところで、コメント。
その地域の多数派(/マジョリティ)が深刻な被害を大規模災害時には、結束が強調され、復興のために大規模な(社会的、経済的、あるいは公的、私的な)支援が展開されるというのは当然のことである。
その一方で、同じ幸福追求権を持っているはずなのに、ある種の「被害」は社会的に十分な支援が与えられないばかりか、場合によっては(スティグマ化が恐れられる場合)被害者がそれを口にすることすらはばかられる、というケースはある。
その二種類の落差に気がついたときに、後者の「被害者」(マイナーな被害者)が二つの「被害」の扱いの差に愕然とするということは大いにあり得る。
また、災害からの復興が結束を強調すること、また政府や地域マジョリティが想定する「一般的、標準的な被災者像」を想定すること、また被災者自身が想定されたやりかたで被害を訴えること(ポスコロ流に言うと「被害者の語りが定型化していくこと」)のなかで、マイナーな被害者(この時点で、しばしばメジャーな災害とマイナーな事件の二つの事象から二重に被害を受けている「被害者」であるかもしれない)に適切な支援は後回しにされたり、被害を訴えても聞き届けられることがない、ということは生じうる。
あるいは、場合によってはマイナーな被害者の「被害者の語り」は定型化された被害者の語りから外れるため、メディアなどに載りにくいだけならまだしも、それを表明すること自体がマジョリティへの裏切りや攻撃とみなされる、という事象すら生じうる(ここで、「第三の被害」が発生するわけである)。
特に、セクシャリティに関する事象は、こういった問題を生じがちである。
こうしたことは、別に日本に限った話ではなく、全世界の災害や紛争などにさいして発生しており、そういった問題に対する研究もそれなりに蓄積されている。
しかし、残念ながらそういった問題について、日本の行政の反応は全体に鈍いし、社会的にも「多様で異質な語り」に対する抑圧は、そもそも平素から日本社会の大きな問題であるし、対策が十分とは言いがたいように思われる。
…ということで、当該記事のコメント欄も、そういった問題を立証してしまっているように感じられる。
もちろん、「著者がそのあたりを十分に説明していない」という批判はあり得るとは思うが、おそらく殆ど全ての人にとって、人生のある局面でこういった問題に直面する機会があったとして、それはもっと(この記事に書かれる以上に)僅かな兆しとしてしか与えられないであろう、ということは考えておきたい。
つまり、ある、とても遠慮がちな「マイナーな被害者の語り」に直面したときに、我々は「今はもっと大事な問題があるし、みんな頑張ってるんだから、君ももう少しがんばりなよ」みたいなことを言ってはいないか、という反省が必要だ、ということである(もちろん、私自身も現実の問題に直面したときに、あまり繊細には振舞えていないだろうな、という自己反省を込めての提言である)。
その上で、確かに著者の前振り「地方を、そして日本を本当の意味で活性化させるために必要なものは、何でしょうか。それは、実はとてもシンプルで、若い女性たちのもつ力を最大限活かすこと。(中略)自ずと人口は増え、地方自治体は消滅から再生へと向かうはずです」にこの議論が続くことには若干の違和感を感じざるを得ない。
こういった問題というのは、定型的に提供される(しばしば家父長的な社会を想定した)福祉国家型の支援と、"若い女性たちのもつ力を最大限活かす"といったネオリベラルな根性論の間に落ち込んでしまった、個々の主体が抱える困難、ということであるように思う。
その場合、困難を抱えた女性たちがある種の解決策を見つけることと、地方自治体にとって好ましいことが起こることと、もちろん重なる部分は多いであろうが、重なることを前提としたり重なることを求めたりしてはいかんのではないか、という危惧を感じるというのが正直なところである。
2015年4月17日金曜日
「人間(労働力)の原価」ということについて
参加した牛丼チェーンのパート、神奈川県の30代男性は時給約1千円。シフトの多い月でも収入は15万円ほどで貯金はゼロという。「まともな生活を送るには時給1500円が必要だ」と話した。
2015年4月16日木曜日
2015年4月11日土曜日
科学と差別について(2) あるいは「低線量被ばく」の問題について
「差別」やヘイトスピーチは、近代的な民主国家において事実上、言論の自由に制限を加えることができる、数少ない根拠のひとつになる。
そのため、何が差別にあたるのかは極めて慎重に見極める必要がある。
1)
「言論の自由」、つまり自由に自分の思想を表現すること、また他者の思想を批判すること、は民主制度の根幹であり、人権のなかでも極めて重要なものである。
その一方で、たとえばプライバシーの侵害をしないように、という規制も受ける。
ある言説が差別である、また差別的言説の強力な形態としての(ヘイトクライムを誘発する、という意味での)ヘイトスピーチであるというような場合は、たとえばメディアが自主的に規制を行ったり、場合によっては法的な規制を行う、ということが考えられる。
人権を制限するのは他者の人権のみ、という近代民主国家の理念に忠実であれば、プライバシーや誹謗中傷、という問題で(最終的には裁判所の判断に委ねることになるだろうが)言論が制限されるのはわかりやすい。
しかし、「差別」というのは、個々人の権利とのコンフリクトというよりは、個人の言論が、より集合的なグループ(一般的には社会的に「マイノリティ」のグループ)の成員に対する集合的な権利侵害になる、というケースを名指すことになる。
したがって、プライバシーの侵害といった問題よりも問題は複雑であり、慎重に考える必要がある。
2015年4月6日月曜日
お知らせ グローバリゼーションを考える:99パーセントの声 With 投票割!
ATTACは各町にこまごまとあるのが理想なので、できれば ATTACたかつき的なものを立ち上げたいと思ったりしておりますので、ご関心のある方はご参加下さい(もちろん、たんなる冷やかし歓迎です)。
会場の都合もありますので、メール(takastuki [at] attac.jp)か Facebook Page のほうからお申込みいただけると幸いです。
グローバリゼーションを考える:
99パーセントの声 With 投票割!
(選挙に行って、地元で美味しいものを食べて、社会について考えよう)
主催: ATTACたかつき(仮称) 連絡先:春日
共催: ATTAC関西(予定)
場所:カフェコモンズ http://cafe-commons.com/
日程: 2015年04月12日 17:00〜 (16:30 開場)
申し込み: takastuki [at] attac.jp
Facebook page からも申し込み可能です。
※お席に余裕があれば当日でもご入場いただけますが、お席に限りがある(25人程度)のため、できればメールでお申し込みください
第一部: 世界社会フォーラム 2015 チュニスから
17:00〜
3月24日から28日の会期でチュニジアで開かれる世界社会フォーラムをうけて、現地からの報告を聞き、今後日本でグローバル化の問題について、どのような議論をしていけるか考えます(参加した方の報告を予定)。
どなたでもお気軽にご参加いただけます。世界社会フォーラムについては、
http://blog.socialforum.jp/ で現地からのレポートが読めますので、併せてご覧ください。
参加費: 無料(ワンドリンクご注文ください)
第二部: 社会運動にとってのピケティ
18:00〜20:00
ベストセラーになったピケティの『21世紀の資本』で示されているような議論について、専門家を招くなどして継続的に議論していきたいと思いますが、そのさいにどのような論点があり得るか、まずフラットに考えてみたいと思います。講演者を呼ぶための準備会合でもありますが、基本的な資料は準備しますので、どなたでもお気軽にご参加下さい。
参加費:食事付き(飲み物別) 2000円
選挙割として、当日行われる自治体議会選挙の投票証明をお持ちの方は500円割引いたします。またお食事がいらない方なども、お気軽にご相談ください。
参加費について
選挙割として、当日行われる地方議会選挙の投票証明をお持ちの方は300円割引いたします。
また、お食事がいらない場合などは割引いたしますので、事前にご相談ください。
PDFちらし
科学と差別について
差別の定義も多様であるが、ここでは「本人の行為ではなく属性によって取り扱いに差をつける」ということにしておく。
また「本人の努力によってどうすることも出来ない事柄で不利益な扱いをすること」という言い方をすることがあるが、これはたぶん「属性」だと意味がよくわからないことを配慮して言い換えたものではないか、と推量される。ここでいう「属性」とは、たとえば国籍や民族、宗教、人種、家柄、肌の色、心身の障がい、性的指向、といったことである。
単に「差をつける」のか「不利益な扱い」に限定するのかは論点の一つである。
一般には、たとえば「黒人/アフリカ系であればトラック競技が得意であろう」といった前提で物事を決めるのも、表面的には「不利益」ではなく優遇措置に見えるが、それによってトラック競技をしたい「黒人ではない」人々に不利だということだけではなく、トラック競技が得意であろうと決めつけられる当人にとっても圧力になり、また他の社会的選択の幅を狭めるといった問題から、差別に該当するのではないか、という見解が主流であろう。
これは、一見「不利益ではない差別」であるが、「広い目で見れば当事者に不利益」という言い方もあるため、先の定義に「不利益な扱い」を入れることが間違っているのかどうかというのは単純ではない。
基本的には、利益があれば誰かに不利益であることや、自己決定権の侵害そのものが不利益であるという点を配慮すれば、「不利益な」が定義に含まれていても間違いではないと思う一方、「不利益」という文言を入れることによる誤解が生じる可能性を考えれば、定義にそれは含まれないほうがいいように思われる。
(これは、カントの「黄金律批判」とも通底する問題でもあるだろう)。
また、「属性」を「本人の努力によってどうすることも出来ない事柄」に書き下すことも、理解を容易にするメリットは否定できないが、「努力」の解釈次第で、差別性を否定するへ理屈を可能にするため、注意が必要である。
こういった問題は、特に比較的軽微な精神障害などによって発生しうるであろう。また、たとえば国籍や宗教は変更が不可能な事項ではない。しかし、通常の社会ではこれらをあえて変更することは稀であり、また変更によって生じる社会的・心理的負荷を考えればそれを容易に求めるべきではないことも明白であるため、通常はこれらは「属性」の問題に帰することにされている。
さて、いずれにしても「取り扱いに差をつける」というのは社会的事象であるため、「差別」は本質的には社会的な問題ということになる。
「科学知識」が差別にどう関わるか、という点は複雑な問題である(本来ならば「知の権力性」というよく知られた問題にかかわらざるを得ないところであるが、ここではあえてその説明の仕方を採用せずに議論を進めてみたい)。
第一に、「属性」というのは、あるいはなにを(先に述べたような誤解を招くことは承知で、あえて簡便のために言うと)「努力では変えられないもの」とするか、という点については、科学知識の発展によって変化することはあり得るだろう。一方で、その「発展」によって得られた知見が、それ以前のものよりマシである、ということには必ずしもならない。
こういった問題を考える際によくあげられる事例が、米国マサチューセッツ州のマーサズ・ヴィニャード島の手話文化である。
同島に植民した欧州系の人々の子孫は(小さい島で、比較的近親同士での結婚が続いたこともあり)遺伝的にろうあの比率が高かった。そのピークを迎えた19世紀中頃では、人口の4パーセント程度がろうあであったと記録されている。
そのため、この島では手話が極めて高度に発達し、ほとんどの島民が、ろうあかそうでないかにかかわらず手話を使うことができ、非ろうあ者どうしでの会話でも通常の話し言葉と手話が混交して使われていた、という。
こうしたケースでは、医学的には「ろうあ」であっても、社会的な属性として「ろうあ」が障がいとして認知されることはほぼなかったであろう。
「属性」といっても、本質的には社会的な問題であることが理解できる。
では、科学が関わるケースとはどのようなものであろうか?
現代社会において最もよく議論される事例は、性的指向(つまり異性愛/同性愛)を巡る問題である。
長らく、キリスト教社会では同性愛は当人のモラル(悪徳とか不良行為といった)に還元される問題であった。
これが、科学の発達により病理や形質に関係する問題であると考えられるようになる。
たとえば、『クィア・サイエンス―同性愛をめぐる科学言説の変遷』といった著作もある神経学者のサイモン・ ルヴェイは自分自身もゲイであることを公表しているが、その同性愛の原因を脳視床下部の構造の違いに求めている。
ゲイになるかどうかということと、身体構造や遺伝的な条件がどう関係しているかという問題については、他にも様々な仮説が提唱されており、今の所科学的に確かなことはいえない。
しかし、もし身体的な「属性」の問題だとすれば、それは差別の問題だ、ということになる。
また、アメリカのキリスト教保守派にとっても、神に与えられた身体の属性としてゲイであることが定められているのであれば、ゲイであることは自然であり、神の意志であり、したがってゲイとして生きることは権利である、ということになろう。
そのため、たとえばダン・クェールのようなアメリカの保守派の政治家はしばしば「ホモセクシュアルであることは生物学の問題ではなく、選択の問題である」と主張するのである。
しかし、ゲイであることが選択の問題ではなく、「属性」の問題だというのは、クェールのような人々にとって常によくないニュースで、ルヴェイのような人々にとってはいいニュースかというと、必ずしもそうとは言えない。
つまり、「属性」が病理学的な問題である時、その「属性」は治療の対象になるべきか、という次の問題が発生する。
また、場合によっては、遺伝的にそれが同定可能である場合、 事前に両親がそれを診断し、場合によっては中絶などの手段を選択するか、という問題にもなる。
現代日本において子どもが同性愛者の可能性があるからといって中絶を選択する両親はあまり多くはない気はするが、仮にそういうことがあるとして許されるだろうか?
あるいは、先にあげたろうあや他の「障がい」(すでに述べた通りなにが障がいかは概ね社会的に決定されるものである)だとどうだろうか?
もし、それらが許されないとすれば、社会的に許されてしまっている事例との差はなんだろうか?
また、仮にそれらの特性が治療できるようになるとして、治療すべき病気や障がいと、単なる個性の間はどんなものであろうか?
つまり、遺伝子治療などの倫理としては、病気や障がいをなおすことは許されるが、デザイナーズ・ベイビー(親の都合で好みの「能力」を「伸ばす」ような治療)はゆるされない、とされている。
しかし、なにが障がいでなにが特徴なのかは明示的に定義できるものではない。
たとえば、身長が1メーターを切る可能性が高い場合、胎児に遺伝子治療が(もちろん、可能になったと仮定して)施されることは「治療」と表現されるであろう。
一方、150センチの身長を180センチにする操作は明らかにデザイナーズ・ベイビーであろう。
では、この100センチから150センチのあいだの、どこに我々は線を引くべきであろうか?
たとえば、一つ合理的な答えは、その国ないし地域の平均身長からXセンチ以上さがあれば治療の対象になる、というものであるが、この場合、たとえば両親が日本から(平均身長の高い)オランダに移民したら、子どもに対する操作が「デザイン」から「治療」に変わるのだろうか?
また、おそらくろうあ者ののように、その特性によって「手話」という文化圏を形成している人びとにとってしてみれば、新たに生まれてくる、ろうあ者コミュニティを構成するであろう人々を、事前に選別し治療によって消滅させることは、文化の存続にとって大きな脅威である、と考えらえても当然であろう。
では、ろうあ者は独自の言語(手話)をもっているため独自の文化の担い手であるが、そうでない障がいや病気の人々はそうでない、という見解は妥当なものであろうか?
こういった問題を考えるために、アメリカにすむ聾唖のレズビアン・カップルが、遺伝的にろうあの家系の友人から精子提供を受けて、ろうあの子どもを作った、というケースを考えてみよう。
このカップルからすれば、ろうあという自分たちの文化を受け継ぐ子どもをつくるということは自然だ、ということになるだろうし、遺伝的原因によるろうあという属性を共有するヘテロのカップルが、その遺伝子を受け継ぐ子どもをつくることが権利として保証されるのであれば、当然自分たちに対しても同じ権利は保証されるべきだ、ということになる。
一方、ある種の人々からはこれは「わざと障がいのある子どもを生んでいる」ということになるし、また(逆に?)これは親が遺伝的に好ましいと思われる特性を選択している、デザイナーズ・ベイビーである、という批判もある。
こうした問題を見てみれば、科学が差別を生むというわけではないにせよ、科学の進歩に従って人間社会の関係性のあり方も大きく変容し、その結果差別問題にも大きな影響を及ぼしていることがわかる。
そして、「現段階での科学」がもたらす(ように見える)回答が、長期的に見てベストな回答であるかどうかはわからない。
にもかかわらず、我々が発展してしまった科学を使わないで済ませる、という選択をすることは、通常極めて困難である。
暫定的にせよ、唯一言えること、あるいは強調しなければいけないことは、差別の問題は常に人権(あるいは「自由・平等・連帯」という現代の人類社会の原則)に立ち返っって判断しなければならないということである。
たとえば、出世前診断によって産む産まないの判別が可能になった時、産む者がどちらの選択をしても批判にさらされるであろうことは容易に想像がつく。
「障がいのある子が生まれることはわかっていたのだから、その子を育てる追加のコストは社会に転嫁すべきでなく、その選択をした個人が負うべきだ」という非難などは、特に日本社会で強く現れるであろうことが憂慮されるであろう。
この時大事なのは、連帯の原則、あるいは福祉国家の原則として、当事者に瑕疵が有る無しにかかわらず、追加のコストは社会で広く浅く負担する、という原則であり、先に例にあげた「ろうあのレズビアン・カップルの子ども」という事例も、本質的にはこの応用問題として捉えられるべきだろう。
※続き、的なもの
→科学と差別について(2) あるいは「低線量被ばく」の問題について