(「科学と差別」に関する議論の続きとして…)
「差別」やヘイトスピーチは、近代的な民主国家において事実上、言論の自由に制限を加えることができる、数少ない根拠のひとつになる。
そのため、何が差別にあたるのかは極めて慎重に見極める必要がある。
1)
「言論の自由」、つまり自由に自分の思想を表現すること、また他者の思想を批判すること、は民主制度の根幹であり、人権のなかでも極めて重要なものである。
その一方で、たとえばプライバシーの侵害をしないように、という規制も受ける。
ある言説が差別である、また差別的言説の強力な形態としての(ヘイトクライムを誘発する、という意味での)ヘイトスピーチであるというような場合は、たとえばメディアが自主的に規制を行ったり、場合によっては法的な規制を行う、ということが考えられる。
人権を制限するのは他者の人権のみ、という近代民主国家の理念に忠実であれば、プライバシーや誹謗中傷、という問題で(最終的には裁判所の判断に委ねることになるだろうが)言論が制限されるのはわかりやすい。
しかし、「差別」というのは、個々人の権利とのコンフリクトというよりは、個人の言論が、より集合的なグループ(一般的には社会的に「マイノリティ」のグループ)の成員に対する集合的な権利侵害になる、というケースを名指すことになる。
したがって、プライバシーの侵害といった問題よりも問題は複雑であり、慎重に考える必要がある。
先にも述べた通り、差別とは、「属性」によって特別な扱いを受けないことである。
このことを考える上で、もっとも重要なことは、それが人権、あるいは自由、平等、連帯という原理に基づいたものであるか、ということに常に立ち返ることである。
例えば、移動の自由は人権の一つであり、したがって法的な手続きなしに自由を拘束されるべきではない。
ここでも重要なのは、「法的な手続き」ということである。
例えば、犯罪を犯した場合は、適切な手続きによって逮捕され、裁判を受け、拘束されたり懲役を課されれたりということがあり得る。
しかし、その場合も、出自などの属性によって特別な取り扱いを受けることはあってはなららず、また法律がその人物に公正であるように(例えば日本語が不自由であることによって裁判で不利益を受けないように通訳を用意する義務が政府の側にある、というように)配慮される必要がある。
この「配慮」がどの程度であれば十分かは、時代や社会情勢において変化するのであり、有権者は政府がその責務を果たしているか、常に監視して、必要であれば法律を改正するように促していくことが大事である。
さて、こうした前提に立てば、例えば福島に住んでいた人がある場所への移動を拒否されるとか、学校への入学などに不都合があるとかいうことが生じてはならないことは明らかである。
たとえば、原発事故直後に某市が福島からの避難者に放射線量のチェックを受けるようにと指示したという事例があったが、これなどは自治体による逸脱事例の一つであろう。
ただし、これは科学的なリスクからいっても荒唐無稽な話であるとしても、これは「科学的ではない」から差別なのかというと、そうではなく、あくまで自治体に認められた権限の問題である。
たとえば、先のエボラ出血熱の大流行の際に、流行地域(西アフリカのいくつかの国)から帰国した医療関係者に対して、一部の州が強制隔離措置を実施、それを連邦政府が批判する、という議論が起こった。
エボラのケースは、潜伏期間もあり、また感染力が強い伝染病であることから、「科学的」に見れば被ばくのケースより合理性があるように見えるかもしれない。
しかし、ここではやはり「人権」の原則に立ち戻ることが大事である。
そうすれば、隔離は事前に入念に議論された立法によるべきであり、アドホックに隔離措置が強行されるべきではなく、また事前の立法は隔離を行う社会の便益だけではなく、隔離される側の便益に十分に配慮したものになるべきである。
(隔離は経済的、社会的、精神的に負担が大きく、どんな人間であっても隔離が必要以上の期間に及ぶべきではないし、隔離される間の生活が文化的で健康的に保たれるような配慮が法的に義務付けられるべきである)
こうした問題は、たとえば日本では隔離措置を規定した「新型インフルエンザ等対策特別措置法」(新型インフル特措法 2012年施行)の立法の時に議論になり、この法律については日本弁護士連合会の反対声明も出されたが、社会全般で広く議論されたとは言いがたい状態にある。
たとえば、こういった法律のあり方について社会的に議論を深めることは、「差別」を事前に防止する一助になるであろう。
では、個人に対するものではなく、たとえば「福島には住めない」とか「福島の農産物はあぶない」といった議論はどうであろうか?
これも、一見科学の問題に見えるが、実際は人権の問題である。
まず、リスクに関する(科学的な)議論は、量的な問題であり、「差別かどうか」は質的に判断すべき問題である、ということがある。
つまり、たとえばある活動によって生涯の致死リスクが10万分の1上昇するような行為について「やるべきではない」と主張することは差別で、1000分の1上昇する行為の場合は差別ではない、といった議論は、あまり合理的とは言いがたい(では、どこで千を引くべきなのであろうか)。
また、どの程度のリスクを受容するか、というのはあくまで個人の選好の問題である。
たとえば「冬山登山は趣味としてはリスクが高すぎるが、高速バスはお金を貯めるためによく利用する」という人と、逆に「高速バスは怖いから使わないが、冬山登山のためであれば多少のリスクは厭わない」という人がいるとして、別にどちらが正しいという話でもない。
もちろん、お互いに「AをするならBもするべきだ」とか、その逆に「AをしないならBもしないべきだ」という議論を始めると話はややこしくなるが、友人同士でのディスカッションを楽しむ程度であればいいとして、公的な場で誰かに自分のリスク選好を押し付けようとするべきではないだろうし、まして政府が国民のリスク選好を勝手に規定することは許されないだろう。
個人的には「福島にはもう住めない」は(大気汚染を理由に)「北京にはもう住めない」とか(犯罪率を理由に)「テグシガルパにはもう住めない」というのと同じ程度には「失礼である」とは思うが、それが差別や倫理の問題であると論じることは妥当性を欠くのである。
同様に、福島産を忌避する権利を消費者に認めないのは妥当ではない。
資本主義では、消費生活において、ある人が些細と思うリスクの差に別の人が敏感になることを許容している。
たとえばブランドイメージ(A社の製品よりB社の製品のほうがいざという時に壊れにくそうだ)といったのはそういうことであり、「風評被害」とは、ネガティヴなブランドイメージ、ということである。
たとえば「国産」と「中国産」といった対比は我々が日常的に見るものであるが、これは資本主義化における差異化の原理として正当なものとみなされている。
あるいは、「有機野菜」であることがどれだけ安全に寄与しているか、定量的に評価することは難しいが、商品の差異化の原理として、これも日常的に使われており、問題視はされていない。
こういった資本主義の原理をすべて廃止し、政府や科学者が定量的に確定させた数値による差しか価格やブランドイメージに反映させてはいけない、という強制を全商品に対して行うことは合理的ではないだろう。
福島産の野菜などが享受していたブランドイメージの下落については、まず下落を引き起こした側がそれを経済的、社会的に補償すべき問題であり、それを無視して「福島産の食品は食べない」という消費者の意見を「差別」として批判することは、言論の自由のみならず市場制度に対しても大きな挑戦となる。
逆に、たとえば食管制が施行されており、また同時に福島産の米の線量が政府の基準値を下回ってるにもかかわらず政府(やその委託を受けた機関)が福島産の米のみの買い取りを拒否する、というようなことがあった場合は、政府機関による「法の下での平等」という原則に反しているわけだから、これは差別であろう。
2)
いずれにしても、現在起こっているような議論の対立は、十分な社会的資源の投入なしで解決できるものではないであろう。
すでに別の記事(被ばくのリスクについての覚え書き)で述べた通り、1mSv/yの超過被曝というのは、そこに絶対住めないという線量でもない一方で、それにリスクを感じる人がいるのも否定できない線量である。
こういった反応というのは、リスクの選好の問題であり、どこかで線引きできるという問題ではない。
つまり、結局のところどの程度のリスクを許容するかということは、そのエリアに居住することにどの程度の選好を持っているかという問題であり、それは個人の好み、あるいは年齢や生業などの影響を受けて多様であるはずである。
子ども被災者支援法などはこうした原理に基づいて制定されているが、この法律は事実上死文化してしまっている。
もし、個々の選好に応じた対応がなされていれば、選好の異なる個々人間の対立はいまよりずっと軽減されるであろう、と予測することは合理的である。
つまり、少なくとも一定の幅を持って、避難と継続居住を選択できるエリアの設定が必要なのである。
この場合の「避難を選ぶような選好に対応する」ということは、相応の公的支出を伴って、避難者の避難先での住居や再就職(もちろん教育や医療の権利)を保証するということである(実際は、帰還を選びたい場合に即応できる体制も求められるであろう。そのため、二重の住民票登録などの制度改正も必要かもしれない)。
これを設定せずに、政府が「避難せよ」といったところからほぼ強制的に立ち退かされ、「避難指示解除」と言われれば帰らざるを得ない(支援を打ち切られる)という状態が異常なのである。
避難/継続居住選択エリアの下限を 1mSv/y の超過被曝に求めることは一定、合理的である(先にあげた記事で述べた通り、それは万人が逃げ出さなければいけない数字ではないにせよ、決して無視できるリスクではない)。
上限については、議論しなければならないことは多々有るのだが、チェルノブイリでもサマショールと呼ばれる「自主帰還者」が発生したことからも分かる通り、なるべく帰還したい住民の意思を尊重するのが好ましいことはいうまでもない。
一方で、「帰還を許可する」ということが、政府が本来提供すべきフルセットの福祉を提供することが前提である、ということになると、政府は当該地域に公務員を派遣しなければいけなくなるため、その地域に派遣される(個人の意思ではなく、業務として被ばくする)公務員が発生することになり、その被ばくの限度量をどう設定し、どうコントロールするか、という問題が発生する。
もちろん「自主帰還であることは、政府が本来提供すべき福祉のすべてないし一部に対する権利を放棄することである」という議論もありうるが、これは個人的には筋のよくない(経緯を考えれば無責任な)議論であるように思う。
しかし、どの程度の被ばくがどの程度の期間想定されるか、またそれに対してどのような社会的、経済的支援があるか、によって避難を選ぶか継続居住を選ぶかは変わってくる。
そのため、ICRPの勧告は現存被ばく状況(20mSv/y以下、1mSv/y以上の超過被ばくが想定される状態)においてステークホルダーが協議し、どのような支援が必要か、また満たされない場合はどうするかについて議論することが求められている。
リスクを受任するか、移住する(これは個々人の選好に従って別種のリスクを選択する、ということでもある)かは、そういった議論の結果として選択されるべきものであり、現在のように政府によって数値がトップダウンで決められ、住民はそれを受任することが迫られる、という状態は民主国家として異常というべきである。
では、なぜそのような異常がまかり通るかといえば、事故処理をいかに安く済ませるか、ということが国の政策レベルで優先されているからとしか解釈できない(多様性を認めること、熟議を行うことにはコストがかかるのである)。
また、事故処理のコストを小さくみせかけることで利益を享受するのは、原発を推進したい業界や政府である(リスク選好の異なる住民同士が対立を余儀なくされるのは、事故処理やそのための熟議に十分なコストが支払われていない、ということに起因するのである)。
我々は、個々の地域住民のリスク選好を幅広く尊重すべきであり、そのためには個々の住民の避難する、止まるといった決断そのものを論議するのではなく、そういった決断(や変更)が容易であるような制度改正を求めていくことしか、「対立」の和解はあり得ないと思われる。
つまり、安全派対危険派、のような設定は、民主制とそれに必要な(事故の責任者が支払うべき)コストが保証されていない状態でのみ発生する擬似問題であるといえよう。
また、どのような制度が多様なリスク選好を包括しうるかを考えるべきだ、という基本方針を確立することは、再稼働が強行されるであろう原発の事故が再び起こった場合や、その他の公害のリスクに今後我が国が対応すること、あるいは諸外国における同様の事態に対応するために重要である。
つづく
「差別」やヘイトスピーチは、近代的な民主国家において事実上、言論の自由に制限を加えることができる、数少ない根拠のひとつになる。
そのため、何が差別にあたるのかは極めて慎重に見極める必要がある。
1)
「言論の自由」、つまり自由に自分の思想を表現すること、また他者の思想を批判すること、は民主制度の根幹であり、人権のなかでも極めて重要なものである。
その一方で、たとえばプライバシーの侵害をしないように、という規制も受ける。
ある言説が差別である、また差別的言説の強力な形態としての(ヘイトクライムを誘発する、という意味での)ヘイトスピーチであるというような場合は、たとえばメディアが自主的に規制を行ったり、場合によっては法的な規制を行う、ということが考えられる。
人権を制限するのは他者の人権のみ、という近代民主国家の理念に忠実であれば、プライバシーや誹謗中傷、という問題で(最終的には裁判所の判断に委ねることになるだろうが)言論が制限されるのはわかりやすい。
しかし、「差別」というのは、個々人の権利とのコンフリクトというよりは、個人の言論が、より集合的なグループ(一般的には社会的に「マイノリティ」のグループ)の成員に対する集合的な権利侵害になる、というケースを名指すことになる。
したがって、プライバシーの侵害といった問題よりも問題は複雑であり、慎重に考える必要がある。
先にも述べた通り、差別とは、「属性」によって特別な扱いを受けないことである。
このことを考える上で、もっとも重要なことは、それが人権、あるいは自由、平等、連帯という原理に基づいたものであるか、ということに常に立ち返ることである。
例えば、移動の自由は人権の一つであり、したがって法的な手続きなしに自由を拘束されるべきではない。
ここでも重要なのは、「法的な手続き」ということである。
例えば、犯罪を犯した場合は、適切な手続きによって逮捕され、裁判を受け、拘束されたり懲役を課されれたりということがあり得る。
しかし、その場合も、出自などの属性によって特別な取り扱いを受けることはあってはなららず、また法律がその人物に公正であるように(例えば日本語が不自由であることによって裁判で不利益を受けないように通訳を用意する義務が政府の側にある、というように)配慮される必要がある。
この「配慮」がどの程度であれば十分かは、時代や社会情勢において変化するのであり、有権者は政府がその責務を果たしているか、常に監視して、必要であれば法律を改正するように促していくことが大事である。
さて、こうした前提に立てば、例えば福島に住んでいた人がある場所への移動を拒否されるとか、学校への入学などに不都合があるとかいうことが生じてはならないことは明らかである。
たとえば、原発事故直後に某市が福島からの避難者に放射線量のチェックを受けるようにと指示したという事例があったが、これなどは自治体による逸脱事例の一つであろう。
ただし、これは科学的なリスクからいっても荒唐無稽な話であるとしても、これは「科学的ではない」から差別なのかというと、そうではなく、あくまで自治体に認められた権限の問題である。
たとえば、先のエボラ出血熱の大流行の際に、流行地域(西アフリカのいくつかの国)から帰国した医療関係者に対して、一部の州が強制隔離措置を実施、それを連邦政府が批判する、という議論が起こった。
エボラのケースは、潜伏期間もあり、また感染力が強い伝染病であることから、「科学的」に見れば被ばくのケースより合理性があるように見えるかもしれない。
しかし、ここではやはり「人権」の原則に立ち戻ることが大事である。
そうすれば、隔離は事前に入念に議論された立法によるべきであり、アドホックに隔離措置が強行されるべきではなく、また事前の立法は隔離を行う社会の便益だけではなく、隔離される側の便益に十分に配慮したものになるべきである。
(隔離は経済的、社会的、精神的に負担が大きく、どんな人間であっても隔離が必要以上の期間に及ぶべきではないし、隔離される間の生活が文化的で健康的に保たれるような配慮が法的に義務付けられるべきである)
こうした問題は、たとえば日本では隔離措置を規定した「新型インフルエンザ等対策特別措置法」(新型インフル特措法 2012年施行)の立法の時に議論になり、この法律については日本弁護士連合会の反対声明も出されたが、社会全般で広く議論されたとは言いがたい状態にある。
たとえば、こういった法律のあり方について社会的に議論を深めることは、「差別」を事前に防止する一助になるであろう。
では、個人に対するものではなく、たとえば「福島には住めない」とか「福島の農産物はあぶない」といった議論はどうであろうか?
これも、一見科学の問題に見えるが、実際は人権の問題である。
まず、リスクに関する(科学的な)議論は、量的な問題であり、「差別かどうか」は質的に判断すべき問題である、ということがある。
つまり、たとえばある活動によって生涯の致死リスクが10万分の1上昇するような行為について「やるべきではない」と主張することは差別で、1000分の1上昇する行為の場合は差別ではない、といった議論は、あまり合理的とは言いがたい(では、どこで千を引くべきなのであろうか)。
また、どの程度のリスクを受容するか、というのはあくまで個人の選好の問題である。
たとえば「冬山登山は趣味としてはリスクが高すぎるが、高速バスはお金を貯めるためによく利用する」という人と、逆に「高速バスは怖いから使わないが、冬山登山のためであれば多少のリスクは厭わない」という人がいるとして、別にどちらが正しいという話でもない。
もちろん、お互いに「AをするならBもするべきだ」とか、その逆に「AをしないならBもしないべきだ」という議論を始めると話はややこしくなるが、友人同士でのディスカッションを楽しむ程度であればいいとして、公的な場で誰かに自分のリスク選好を押し付けようとするべきではないだろうし、まして政府が国民のリスク選好を勝手に規定することは許されないだろう。
個人的には「福島にはもう住めない」は(大気汚染を理由に)「北京にはもう住めない」とか(犯罪率を理由に)「テグシガルパにはもう住めない」というのと同じ程度には「失礼である」とは思うが、それが差別や倫理の問題であると論じることは妥当性を欠くのである。
同様に、福島産を忌避する権利を消費者に認めないのは妥当ではない。
資本主義では、消費生活において、ある人が些細と思うリスクの差に別の人が敏感になることを許容している。
たとえばブランドイメージ(A社の製品よりB社の製品のほうがいざという時に壊れにくそうだ)といったのはそういうことであり、「風評被害」とは、ネガティヴなブランドイメージ、ということである。
たとえば「国産」と「中国産」といった対比は我々が日常的に見るものであるが、これは資本主義化における差異化の原理として正当なものとみなされている。
あるいは、「有機野菜」であることがどれだけ安全に寄与しているか、定量的に評価することは難しいが、商品の差異化の原理として、これも日常的に使われており、問題視はされていない。
こういった資本主義の原理をすべて廃止し、政府や科学者が定量的に確定させた数値による差しか価格やブランドイメージに反映させてはいけない、という強制を全商品に対して行うことは合理的ではないだろう。
福島産の野菜などが享受していたブランドイメージの下落については、まず下落を引き起こした側がそれを経済的、社会的に補償すべき問題であり、それを無視して「福島産の食品は食べない」という消費者の意見を「差別」として批判することは、言論の自由のみならず市場制度に対しても大きな挑戦となる。
逆に、たとえば食管制が施行されており、また同時に福島産の米の線量が政府の基準値を下回ってるにもかかわらず政府(やその委託を受けた機関)が福島産の米のみの買い取りを拒否する、というようなことがあった場合は、政府機関による「法の下での平等」という原則に反しているわけだから、これは差別であろう。
2)
いずれにしても、現在起こっているような議論の対立は、十分な社会的資源の投入なしで解決できるものではないであろう。
すでに別の記事(被ばくのリスクについての覚え書き)で述べた通り、1mSv/yの超過被曝というのは、そこに絶対住めないという線量でもない一方で、それにリスクを感じる人がいるのも否定できない線量である。
こういった反応というのは、リスクの選好の問題であり、どこかで線引きできるという問題ではない。
つまり、結局のところどの程度のリスクを許容するかということは、そのエリアに居住することにどの程度の選好を持っているかという問題であり、それは個人の好み、あるいは年齢や生業などの影響を受けて多様であるはずである。
子ども被災者支援法などはこうした原理に基づいて制定されているが、この法律は事実上死文化してしまっている。
もし、個々の選好に応じた対応がなされていれば、選好の異なる個々人間の対立はいまよりずっと軽減されるであろう、と予測することは合理的である。
つまり、少なくとも一定の幅を持って、避難と継続居住を選択できるエリアの設定が必要なのである。
この場合の「避難を選ぶような選好に対応する」ということは、相応の公的支出を伴って、避難者の避難先での住居や再就職(もちろん教育や医療の権利)を保証するということである(実際は、帰還を選びたい場合に即応できる体制も求められるであろう。そのため、二重の住民票登録などの制度改正も必要かもしれない)。
これを設定せずに、政府が「避難せよ」といったところからほぼ強制的に立ち退かされ、「避難指示解除」と言われれば帰らざるを得ない(支援を打ち切られる)という状態が異常なのである。
避難/継続居住選択エリアの下限を 1mSv/y の超過被曝に求めることは一定、合理的である(先にあげた記事で述べた通り、それは万人が逃げ出さなければいけない数字ではないにせよ、決して無視できるリスクではない)。
上限については、議論しなければならないことは多々有るのだが、チェルノブイリでもサマショールと呼ばれる「自主帰還者」が発生したことからも分かる通り、なるべく帰還したい住民の意思を尊重するのが好ましいことはいうまでもない。
一方で、「帰還を許可する」ということが、政府が本来提供すべきフルセットの福祉を提供することが前提である、ということになると、政府は当該地域に公務員を派遣しなければいけなくなるため、その地域に派遣される(個人の意思ではなく、業務として被ばくする)公務員が発生することになり、その被ばくの限度量をどう設定し、どうコントロールするか、という問題が発生する。
もちろん「自主帰還であることは、政府が本来提供すべき福祉のすべてないし一部に対する権利を放棄することである」という議論もありうるが、これは個人的には筋のよくない(経緯を考えれば無責任な)議論であるように思う。
しかし、どの程度の被ばくがどの程度の期間想定されるか、またそれに対してどのような社会的、経済的支援があるか、によって避難を選ぶか継続居住を選ぶかは変わってくる。
そのため、ICRPの勧告は現存被ばく状況(20mSv/y以下、1mSv/y以上の超過被ばくが想定される状態)においてステークホルダーが協議し、どのような支援が必要か、また満たされない場合はどうするかについて議論することが求められている。
リスクを受任するか、移住する(これは個々人の選好に従って別種のリスクを選択する、ということでもある)かは、そういった議論の結果として選択されるべきものであり、現在のように政府によって数値がトップダウンで決められ、住民はそれを受任することが迫られる、という状態は民主国家として異常というべきである。
では、なぜそのような異常がまかり通るかといえば、事故処理をいかに安く済ませるか、ということが国の政策レベルで優先されているからとしか解釈できない(多様性を認めること、熟議を行うことにはコストがかかるのである)。
また、事故処理のコストを小さくみせかけることで利益を享受するのは、原発を推進したい業界や政府である(リスク選好の異なる住民同士が対立を余儀なくされるのは、事故処理やそのための熟議に十分なコストが支払われていない、ということに起因するのである)。
我々は、個々の地域住民のリスク選好を幅広く尊重すべきであり、そのためには個々の住民の避難する、止まるといった決断そのものを論議するのではなく、そういった決断(や変更)が容易であるような制度改正を求めていくことしか、「対立」の和解はあり得ないと思われる。
つまり、安全派対危険派、のような設定は、民主制とそれに必要な(事故の責任者が支払うべき)コストが保証されていない状態でのみ発生する擬似問題であるといえよう。
また、どのような制度が多様なリスク選好を包括しうるかを考えるべきだ、という基本方針を確立することは、再稼働が強行されるであろう原発の事故が再び起こった場合や、その他の公害のリスクに今後我が国が対応すること、あるいは諸外国における同様の事態に対応するために重要である。
つづく
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