以下は朝日新聞による、おそらく最も詳しい書き起こし(「麻生副総理の憲法改正めぐる発言の詳細」)である(世代論の所を削ってある)。
これを、ネガティヴな事象に言及していると思われるところは赤く、ポジティヴな事象に言及していると思われるとことは緑に塗ってみると、以下のようになる。
要するに、靖国と憲法改正について「静かに」行うのが好ましいというところが強調されている。また、何十時間もかけて、ただし冷静に議論したのは自民党であるとも主張しているように読める。
また、最初の段落では確かに 「ワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法」下でヒトラーが出てきたことを逆説として述べているので、ナチス政権に対して批判的だ、という立場をとっているのが解る。
それに対して批判されているのは「喧騒」「狂騒」といった言葉であり、その元凶は靖国に関しては(中韓ではなく)メディアだと述べている。
また、憲法に関しても、この書き起こしでは判断できないが「麻生副総理の憲法改正めぐる発言要旨」という記事のほうにはこの前に
いずれにしても、議論は良いことのボックス(静かに、きちんと、時間をかけて、「落ち着いて、我々を取り巻く環境は何なのか、この状況をよく見」ること)と、悪いことのボックス(騒ぐこと、喧騒、狂騒、狂乱、「護憲と叫」ぶこと)という、比較的シンプルな対比で進められる。
その上で確認できることは、まず第一に麻生氏が「落ち着いて、我々を取り巻く環境は何なのか、この状況をよく見」れば改憲も靖国参拝も必要性・正統性は自明であると考えていることであり、それに異議を提示することは「喧騒、狂騒」の類いであると考えていると言うことである。
これは民主制という観点からも首肯できないが、最後にわざわざ「僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが」と断っているところを見ると、こうした見解が、少なくとも一部の層からは民主主義の否定であると見られることは麻生氏も解っているように思われる。
さて、肝腎の最終段落であるが、ここで明らかに「ワイマール憲法が変わって」を、静かに行われたこととして、これまで彼が提示してきた良い悪いの二項対立の、良いことのボックスに放り込んでしまっている。
ここから先は解釈というか想像だが、確かに議論を始めた段階での構想として、ナチス政権を肯定的に論じるつもりはなかったのだろうと思われる。
たぶん護憲派に対して「騒ぎすぎると逆効果で、よりお前たちに都合のわるい結果をもたらす」というようなことをにおわせようとして、「最悪」の表象としてナチス政権という事例を持ち出したのであろう。
ところが、たぶん議論が進むうちに本人の頭の中で混乱が生じたのではないか。
つまり、当初彼の口を支配して言葉を紡ぐはずだった麻生デーモンAは、最後で「ナチス政権も喧騒の中で改憲を行った結果、最悪の結果をもたらした」というような結論をつける予定であったのだろう。
ところが、たぶん「改憲なら全部良いこと」という前提で言葉を紡ぐ麻生デーモンBが、改憲というトピックで(しかもその直前に一瞬靖国の話題に移ったこともあって、戻ってきたときに文脈の整理の軸が忘れられてしまい)支配権を握ってしまう。
その結果、麻生デーモンBによってナチスの「改憲」(正確には憲法停止、ぐらいであるが…)が、良いことのボックス(静けさ、等々)のほうに放り込まれてしまったのだろう。
…と考えるとまず第一に言えることは、こういうレベルで言語操作を行う人を閣僚にしてはいけないと言うことである。
また、第二に、もし百歩譲ってナチスの改憲を良いことのボックスに放り込んだのは間違いであり、彼の本意ではないということを認めたとしても、元の論旨もとうてい受け入れがたいものであると言うことである。
一つには、本人も婉曲に認めているように、反対派は全て騒いでいるだけで、「落ち着いて、我々を取り巻く環境は何なのか、この状況をよく見」れば政府と違憲が同じになる、という考え方は極めて非民主的であるということである。
また、第二にこの騒いだ人たちが誰かというと、戦前のドイツにあっては(ナチスによって迫害された)ユダヤ教徒、共産党員といった人々であり、またそれを現在の状況に置き換えた時にそれはメディアや「護憲と叫」ぶ人々であるということになる。
つまり、ナチスの改憲が最悪の結果に終わったのも、また今後日本の改憲がもし極めて抑圧的なものになるとしても、悪いのは異論を申し立てるこれらの人々である、という主張をしているという点は、ナチスの改憲に肯定的に言及していようが否定的に言及していようがほぼ変わらないのである(というか、否定的に言及している方が論旨は強化されるとも言える)。
これは、消極的に言っても間違った歴史認識であるし、ナチス・ドイツに抵抗を示した(ユダヤ教徒や共産党以外の人も含めた)多くの人々に対する侮蔑であろう。
また、もちろん政権中枢にいる人間がこういう言い方をすれば、政権の改憲案に異議を申し立てる全ての人々への脅迫でもある。
これは、当該部分を撤回すれば問題解決、というレベルの話しではないように思われる。
これを、ネガティヴな事象に言及していると思われるところは赤く、ポジティヴな事象に言及していると思われるとことは緑に塗ってみると、以下のようになる。
僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。
そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく。
(中略)
しつこく言いますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください。どこが問題なのか。きちっと、書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた。そういった思いが、我々にある。
そのときに喧々諤々(けんけんがくがく)、やりあった。30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあいもなく。『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』と言うと、『そうか』と。偉い人が『ちょっと待て』と。『しかし、君ね』と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、『そうか、そういう考え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。何回か参加してそう思いました。
ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。
靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。
何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって。といったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。
僕は4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからと、靖国神社に連れて行かれた。それが、初めて靖国神社に参拝した記憶です。それから今日まで、毎年1回、必ず行っていますが、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか。
昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。
わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。
要するに、靖国と憲法改正について「静かに」行うのが好ましいというところが強調されている。また、何十時間もかけて、ただし冷静に議論したのは自民党であるとも主張しているように読める。
また、最初の段落では確かに 「ワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法」下でヒトラーが出てきたことを逆説として述べているので、ナチス政権に対して批判的だ、という立場をとっているのが解る。
それに対して批判されているのは「喧騒」「狂騒」といった言葉であり、その元凶は靖国に関しては(中韓ではなく)メディアだと述べている。
また、憲法に関しても、この書き起こしでは判断できないが「麻生副総理の憲法改正めぐる発言要旨」という記事のほうにはこの前に
護憲と叫んでいれば平和が来ると思っているのは大間違いだし、改憲できても『世の中すべて円満に』と、全然違う。改憲は単なる手段だ。目的は国家の安全と安寧と国土、我々の生命、財産の保全、国家の誇り。狂騒、狂乱のなかで決めてほしくない。落ち着いて、我々を取り巻く環境は何なのか、この状況をよく見てください、という世論の上に憲法改正は成し遂げるべきだ。そうしないと間違ったものになりかねない。…という趣旨の発言があったようで(これが書き起こしそのままかは解らないが)「狂乱」を起こしているのは「護憲を叫んで」いる人々であるように読める(また「改憲できても」と述べているから、改憲が自己目的化している人や改憲だけで問題が解決すると思っている人も批判されているようにも読める。これは安倍首相らが改憲を強調しすぎることへの批判なのかもしれない)。
いずれにしても、議論は良いことのボックス(静かに、きちんと、時間をかけて、「落ち着いて、我々を取り巻く環境は何なのか、この状況をよく見」ること)と、悪いことのボックス(騒ぐこと、喧騒、狂騒、狂乱、「護憲と叫」ぶこと)という、比較的シンプルな対比で進められる。
その上で確認できることは、まず第一に麻生氏が「落ち着いて、我々を取り巻く環境は何なのか、この状況をよく見」れば改憲も靖国参拝も必要性・正統性は自明であると考えていることであり、それに異議を提示することは「喧騒、狂騒」の類いであると考えていると言うことである。
これは民主制という観点からも首肯できないが、最後にわざわざ「僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが」と断っているところを見ると、こうした見解が、少なくとも一部の層からは民主主義の否定であると見られることは麻生氏も解っているように思われる。
さて、肝腎の最終段落であるが、ここで明らかに「ワイマール憲法が変わって」を、静かに行われたこととして、これまで彼が提示してきた良い悪いの二項対立の、良いことのボックスに放り込んでしまっている。
ここから先は解釈というか想像だが、確かに議論を始めた段階での構想として、ナチス政権を肯定的に論じるつもりはなかったのだろうと思われる。
たぶん護憲派に対して「騒ぎすぎると逆効果で、よりお前たちに都合のわるい結果をもたらす」というようなことをにおわせようとして、「最悪」の表象としてナチス政権という事例を持ち出したのであろう。
ところが、たぶん議論が進むうちに本人の頭の中で混乱が生じたのではないか。
つまり、当初彼の口を支配して言葉を紡ぐはずだった麻生デーモンAは、最後で「ナチス政権も喧騒の中で改憲を行った結果、最悪の結果をもたらした」というような結論をつける予定であったのだろう。
ところが、たぶん「改憲なら全部良いこと」という前提で言葉を紡ぐ麻生デーモンBが、改憲というトピックで(しかもその直前に一瞬靖国の話題に移ったこともあって、戻ってきたときに文脈の整理の軸が忘れられてしまい)支配権を握ってしまう。
その結果、麻生デーモンBによってナチスの「改憲」(正確には憲法停止、ぐらいであるが…)が、良いことのボックス(静けさ、等々)のほうに放り込まれてしまったのだろう。
…と考えるとまず第一に言えることは、こういうレベルで言語操作を行う人を閣僚にしてはいけないと言うことである。
また、第二に、もし百歩譲ってナチスの改憲を良いことのボックスに放り込んだのは間違いであり、彼の本意ではないということを認めたとしても、元の論旨もとうてい受け入れがたいものであると言うことである。
一つには、本人も婉曲に認めているように、反対派は全て騒いでいるだけで、「落ち着いて、我々を取り巻く環境は何なのか、この状況をよく見」れば政府と違憲が同じになる、という考え方は極めて非民主的であるということである。
また、第二にこの騒いだ人たちが誰かというと、戦前のドイツにあっては(ナチスによって迫害された)ユダヤ教徒、共産党員といった人々であり、またそれを現在の状況に置き換えた時にそれはメディアや「護憲と叫」ぶ人々であるということになる。
つまり、ナチスの改憲が最悪の結果に終わったのも、また今後日本の改憲がもし極めて抑圧的なものになるとしても、悪いのは異論を申し立てるこれらの人々である、という主張をしているという点は、ナチスの改憲に肯定的に言及していようが否定的に言及していようがほぼ変わらないのである(というか、否定的に言及している方が論旨は強化されるとも言える)。
これは、消極的に言っても間違った歴史認識であるし、ナチス・ドイツに抵抗を示した(ユダヤ教徒や共産党以外の人も含めた)多くの人々に対する侮蔑であろう。
また、もちろん政権中枢にいる人間がこういう言い方をすれば、政権の改憲案に異議を申し立てる全ての人々への脅迫でもある。
これは、当該部分を撤回すれば問題解決、というレベルの話しではないように思われる。
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