2020年11月19日木曜日

災害社会主義としてのポスト・コロナ社会を求める

このエントリーをはてなブックマークに追加


 政府は新型コロナ感染症下で、 Go to などの経済対策を続けるようです。しかし、本来はこれは個々人に対する直接保証であるべきで、そうでなければ給付は偏り、救済される人もいる一方で、追い込まれる人を十分に救い上げられないだろう。我々は政府に対してこういった措置を強く求めていくべきである…と言うブログを春に書いたつもりになっていたのであるが、どうも公開してなかったらしい。これから冬にかけて、再び感染の拡大が予想されるので、とりあえず公開しておく(情勢が変わっているところはちょっと文言を直しましたが、基本的に春に書いたときのままです)。


 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の被害が世界中に拡大している。その中で災害社会主義(Disaster Socialism)という言葉を海外の論評などで見かけるようになった。この言葉がどこまで適当かはわからないが、「再分配」という言葉について、人類は再び考えなければならない時にきている。

2020年11月17日火曜日

「大学の軍事研究」は何が問題か

このエントリーをはてなブックマークに追加

予定より長くなったので、最初にアブストラクトを入れておきます。

・フンボルト理念やマートン規範は、主に国家の事情(軍事)と市場の理論の二つから脅かされる。この二つの力の介入を大学が回避することは不可能だが、一定の緊張関係は求められる。


・産学連携より軍学の方がより危険な点があるとすれば「機密」という問題である。第二次世界大戦の敗戦は、この問題に折り合いをつけなければいけないというプレッシャーから、日本の大学を解放したという面はある。


・日本はそのかわりに、学術界主導の基礎研究体制の導入に成功した。これを担ったのが日本学術会議であった。ただし、これはその時々の政権にとっては必ずしも歓迎すべきことではなく、徐々にこの権限は剥奪されていった(しかし、これは合法的に行われたこと、また学者の側の積極的な抵抗は見られなかったことは認めねばならない)。


・一方、戦間期の軍事動員体制を引きずった戦勝国においては、基礎研究が軍事費を中心に支出されており、産業研究がそこから「スピン・アウト」するという体制が戦後も持続した。1970年ごろになると、これは効率の良い研究体制では無いことが認識されるようになった。


・日本は、コンシューマー製品からの養成が技術革新を主導した。これは技術評価に厳しい購買層と合わせて、素早いイノベーションを可能にした。ただし、1970年代に関しては産業界と大学の接続に難があることは、日米の認めるところであった。これを変革しようと、1990年代の大学改革が始まったが、これを成功だったという評価はほぼ無い。


・現在も、日本は米国防総省のDARPAの研究費の支出の仕方などを模倣しようとしている。これは上手くいっているかどうかの評価はおくとしても、別に防衛省でやらなければいけない意味はなく、実際ImPACT は内閣府で実施された。


・むずかいし機密処理の問題を回避するためには、大学は機密性が生じない省庁から研究費を得るのが得策である。国としては、本来防衛省から出すか、他の省庁から出すかは経路の違いに過ぎないので、どちらでもいいはずである。防衛省にこだわるとしたら大学に「機密」を押し付ける意図があるのだろう。


・大学が機能を劣化させない条件で防衛省と契約することは可能であるが、それには、法律の専門家が検証した契約書を準備し、きちんとした法的な手続きが必要であろう。そうした体制を取れるところはほとんどないと思われる。あるいは、米国の大学であるように、独立の研究所なり法人を別途作り、大学とはガバナンスを切り分けることは可能だろう。大学はその研究所を軍事研究を受けるサンドボックスとして利用し、研究者はクロスアポイントメントを利用してそちらにも所属する。これで学生のリスクは小さくできるだろう。


・産学連携と同様に、デュアル・ユース研究から大学が自由であるという楽園はもはや戻ってこないが、法律などの面からその負の影響を最低限に抑えることは可能であり、学術会議の提言はそういうことを求めている。


2020年10月20日火曜日

「日本学術会議」の設置意図から、現在何が賭け金になっているのかを考える

このエントリーをはてなブックマークに追加


1. 「日本学術会議」の設置意図


 なぜ法律を守らなければいけないのか、ということを理解するために、その立法の意図に立ち返って考えることは重要である。人を殺してはいけないことや、人からものを奪ってはいけないことは、さほど考えずとも自明であるように思われる。しかし、例えば人が書いた絵を真似することが、どう言った場面で「違法」になるかは、色々なやり方があるように思われる。だとすれば、どんな社会を作り、どのような方法で、何を守らせようとするかも、実際のところ必ずしも自明とは限らない。ここで、何を目的にして、どう「日本学術会議」を規定する日本学術会議法が定められているかを考えてみたいと思う。

2020年10月4日日曜日

日本学術会議会員任命拒否について、アカデミック・コミュニティはどのような態度で臨むべきか: 様々な差別と人道に関する論点を忘れない

このエントリーをはてなブックマークに追加


 日本学術会議会員任命拒否問題に関しては、学術会議側も外された六人の任命を求めるなど、アカデミック・コミュニティとしても抗議の姿勢を強めていくようである。それは大変大事なことだと思う。ただ、現在の与党幹部と話が通じるという前提でかかるのであれば、不安もある。話が通じるかということは、「学問の自由」というのが、民主国家を支える大前提の一部、それも極めて重要な一部であるという価値観を共有できるか、ということにかかっている。そして、それは(例えば副首相が「大人になってから因数分解や三角関数なんて使わないから、義務教育は小学校まででいい」と言ってしまう状況であることを考えれば)ちょっと望み薄なのではないかと思っている。

 すると、妥結はある種の「力のあるもの同士の取引」になるのかもしれない。アカデミック・コミュニティとして、それで満足すべきなのか、という問題である。


 排他的なポピュリズムというものが世界を覆っている。政治家は、政府の失敗や不作為から目を逸らしつつ、大衆を満足させるために、敵を指名して見せる。敵は様々なマイノリティであることもあるし、あるいはネオリベラルな経済的な文脈で公務員や労働組合などが「改革の敵」「既得権益」として名指されることもある。パブリック・エネミーとして名指されたグループを大衆は非難し、その非難に加わることによってマジョリティの結束は高まり、政権は支持をます。エヴィデンスに基づいた政策論争よりも、この第三項排除の政治の方が、為政者にとって都合が良く、楽でもある。それに争うためには、良質な議論を提供する、政治的・経済的な圧力から独立したメディアの存在が欠かせないが、メディア自体が凋落の一途である。大量のフェイク・ニュースを提供するという方法論は、第一に民衆に「排除の理由」を提供することにあるが、低コストで大量のジャンク・ニュースを提供させることによって、取材や議論に手間のかかるニュースサイトのプレゼンスを低下させ、そこからの収益を奪うという効果も秘めている。


 こうした中で、文化の基盤としての多様性は痩せ細り、公的なサービスへの不信感は増幅されていく。増幅された公的サービスへの不信感は、為政者がそれを営利セクターに売り払い、主権者の手から取り上げ易くもする。大学とか知識は適切に運用されればこう言った構造によって、生きるリソースを奪われようとしている人々を助ける力になる。ゆえにこそ、まず差別や歴史修正主義を扱う人文系が標的になるわけである。すでに科研費による歴史研究が日本政府に対して「後ろ玉」になっているという見解が杉田水脈議員によって国会で述べられるまでになっているが、これも今回の件と一続きであることを認識すべきであろう。大学は脆く、攻撃を受けやすいものであるが、最初に攻撃を受ける場所ではない。世論というのは兎角忘れっぽいもので、学術会議をめぐる騒ぎで、その直前の、これもまた杉田水脈議員による「女は嘘をつける」発言は忘れ去られそうであるが、これらが一連の流れの中にあることを忘れてはならない。


 かつて、ピエール・ブルデューは高級官僚を国家の右手、現場で公共サービスを担う教員、窓口職員、現業職のような人々を国家の左手に例え、ネオリベラル体制を右手による、左手への攻撃に喩えた。日本文化の中にいるものであれば、公務員叩きとレント・シークを、「タコが自らの足を食うような」と見るとしっくりくるかもしれない。しかし、「科学技術創造立国」を国是として掲げながら、一方でノーベル賞受賞者を含む科学者たちのグループを「既得権」として叩き始めるというのは、「このタコ、ついに足では飽き足らず、自分の頭まで食べ始めたよ」と笑うべきところであろう。しかし、だからと言って、頭が「足だけにしておけ」という態度に出るのは好ましくないだろう。

 

 知性があると自認するものにはインテグリティが求められるであろう。これは、一般原則から演繹された倫理に忠実であるべきだ、ということである。なぜ知識が重要であり、知識を産み出し、守る職は公的に確保されるべきなのか。なぜプラトンは彼の学校を世俗の政治から隔絶できるアカデメイアの森の中に作るべきだと考えたのか? それから2000年以上の歳月を経て、我々は知識をいかに積み上げてきたのか。その知識は、我々がどのように振る舞うべきだと教えているのか?



 回答は、多少のグレーゾーンをがあるにしても、概ね明らかであるように思われる。なぜ学問の自由は守られるべきなのか。それは第二次世界大戦の反省と、今沖縄で行われていることと、様々な形で不安定な身分に置かれている外国籍の人々への政府の態度の問題と、その他様々な人道上の問題と連続しているものとして扱われなければいけない。政府与党と科学の貴族たちの対話が、かつての米国大統領とソ連書記長が葉巻を片手に交わしたような、相手の人道問題を黙認する代わりにこちらの問題も見逃してもらう、と言ったものであってはならないことは強調されなければならないだろう。


 任命拒否を撤回する運動が、その他様々な問題を見直すきっかけの一つになることを願っている。


2020年9月8日火曜日

『日本の科学者』9月号 <特集>待ったなし,気候危機を回避するために (…に拙稿掲載)

このエントリーをはてなブックマークに追加

   『日本の科学者』9月号に拙稿が掲載されています。

 気候変動特集の序文、という位置付けの短文です。

 (目次のページで序文は読むことができますが、ご購入いただければ幸いです。)

 9月号への貢献はこれだけなのですが、しばらく編集委員をさせていただくことになりましたので、社会的・科学的に意義のある雑誌にするために及ばずながら努めて参りたいと思います。



2020年8月3日月曜日

研究者のワーク・ライフ・バランスについて

このエントリーをはてなブックマークに追加
 九州大学の中山敬一教授がネットに公開している女性研究者のキャリアに関する文章が議論を呼んでいる。(リンク先に飛んで「女性研究者の有利と不利」をクリックしていただきたい)
 

 ここで、同氏の文章について、問題を整理しておく。
 先に結論を述べておくと、この文章はセクハラとパワハラの双方の成分を含んでいる。
 こういった文章が大学のウェブサイトに公然と載っていること自体が問題であり、またこの態度で研究室運営を行っているとすれば、実際の被害者も多くいると思われる。
 ただ、一方で(少なからぬ擁護者もいるように)ここで表明されているような感覚はいまだに日本の大学の少なからぬ研究室を支配しており、ここまで公然とは言われないにせよ、同様な感覚を抱いている教員は多いかに思われる。
 その意味でも、ここで問題を総括しておくことは重要であろう。


 まず、「今は女性研究者にとって有利な時代」だろうか?
 確かに、「国の施策として、女性教員を増やすように強いプレッシャーがかかっている」のは事実ですが、それだけを持って「女性に有利」と判断するのは早計だろう。
 2012年の文科省の科学技術政策研究所のレポートによれば、2005年の博士課程修了者に占める女性比率は26.7パーセントなのに対して、大学に新卒で本務教員として採用される人に占める女性割合は31.9パーセントである(ii)。
 

2020年7月12日日曜日

「オール大阪でワクチン開発」の研究倫理上の問題点について(未定稿)

このエントリーをはてなブックマークに追加

某所に提出したメモなので、わかりにくいかもしれませんが、リンク集的な利用価値があるかもしれませんので公開しておきます。
 メモがわりの未定稿の公開ということで、情報を足したりするかもしれません(消すことは、基本しないつもりですが…)。


【これまでの経緯】

(1)4月の経緯
  4月14日、大阪府・市、大阪大学、公立大学法人大阪、地方独立行政法人大阪府立病院機構 及び地方独立行政法人大阪市民病院機構の6者がワクチン開発に関する協定を結ぶ。
 

 アンジェスと市立大学病院も別途、同日(14日)付で協定を結んでいる。
 

 これを大阪維新の会の維新Journalが「オール大阪でワクチン開発」「年内には10万単位で投与」などと宣伝。
  



 この段階では「9月には医療関係者に向けた実用化」(大阪日日新聞)と報じられている。
 

 



(2)6月の経緯
 6月17日の記者会見で吉村知事は
 

 知事が記者会見で使ったフリップにも「まずは、大阪市立大学医学部附属病院の医療従事者(20から30例)を対象に実施」とあるため、知事の独断ないし誤解ではなく、事務方もそう認識していた可能性が高いと思われる。
 

 これには、ネットで「医療従事者」を治験の対象にすることへの危惧の声が上がったほか、市立大から倫理委員会の承認前に発表がされたとして「批判や不安の声」があがったとされている。(毎日新聞)
 



 しかし、吉村知事は6月24日の会見で"「ネット上では『(医療従事者に最初に投与するのは)おかしいんじゃないか』という意見があるのは知っている」とした上で、「それだったら、僕を最初に治験者にしてもらっていい。必要であれば、僕が最初にやりますよ。」"と述べたという(日刊スポーツ)。
 

 なお、府議会議員が府職員に確認したところによれば、府はアンジェスや大阪大学などと6者で包括提携を結んでいるが、治験に関してはアンジェスが市大病院と独自に結んだ別の協定に基づくものであり、府として内容に関知するものではない、というような回答だったという。吉村のセリフはなんなんだ、という…。




(3)実際の治験
 実際は、アンジェスは被験者を業者を通じて募集している。毎日新聞に対して、日程などに関する知事の発言については"府が公表した治験日程には「驚いている。目標にはしたい」とした"という(毎日新聞)。
 

 また、医療関係者の治験参加について、市立大学では(同記事によれば)、
 "「(病院職員に治験を)周知はするが、あくまで自由意思に基づく参加とする」としている。"とした。(同)




【問題点】
(1)第一に、大阪府・市は一体としてこのプロジェクトを進めていると表明しているが、そうである以上、市立大及び付属病院にとっては府・市はその予算の大半を支出する実質的な「オーナー」である。
 その市大病院と雇用関係にあるものに対して、知事の優越的地位は明らかであるから、これを治験に参加させるようなことは、例えヴォランティアだとしても避けなければならない。

 人体実験に関しては、ナチス・ドイツの忌まわしい記憶から、厳格な倫理原則を守って行うべきだと考えられている。それを条文化したものに世界医師会によるヘルシンキ宣言がある(1964年に作られ、これまで何度も改定されている)。
 日本でも、これを医師や製薬会社に強制する法律こそないものの、こう言った国際合意に基づいた治験を求める「医薬品の臨床試験の実施の基準に関する省令」などが存在している(この規則を GCP / Good Clinical Practice などと呼ばれることもある)。

 この基準に基づけば、雇用関係にある人が被験者になるといった構造は容認されない。実際、社員を被験者に使ったことにより深刻な事故を招いた例として、我が国でもキセナラミン事件(1963)などがある。

 特に、新型コロナ・ワクチンについては、知事が政治的に宣伝しているということもあり、単なる科学論争の域をこえ、治験に参加するしないが、政治的意見の表明にも読み替えられる恐れもある。
 また、こうして得られた実験結果が、(多発する研究不正の問題を受け)倫理基準が高度化している現在、「中立的な実験結果」として評価されうるかも疑問である。

 第二に、この観点から言えばそもそも知事が特定の医薬品を、治験前から名前を上げて宣伝すること自体が好ましくはない。
 中立的であるはずの治験参加者が、報道に影響を受けて「良い結果を出さなければならない」「良い結果を出すことで知事の応援になる」(あるいはその逆)という感覚を抱かされることになる可能性があるからである。



(2)また、アンジェスの株価はこの間、期待を反映して上げている。
 こういったやり方が、市場という観点からも健全かということは検証しなければならないだろう。
 個別の件がそうかどうかの検証は極めて難しいが、行政がその影響力を利用して株価を上げ下げすることによって、例えば政治家が裏金を作ったり、支持者に対して公表の前に「あの株が上がりますよ」と囁いたり、といったことは容易に行えるわけであり、その点からも行政と一般企業の関係は、節度と距離を持ったものであることが望ましいわけである。
 熾烈なワクチン開発競争が世界中で続いている中で、特定のヴェンチャー企業のそれだけを取り上げることは、この意味でも適切ではない。



(3)アンジェスのワクチンを「オール大阪」として押し出す根拠としては、これがDNAワクチンであるため、比較的早く開発ができる、ということが挙げられている。
 しかし、DNAワクチンが大規模に利用された実績はこれまでなく、開発者の森下教授は安全性も高いと主張する(記事参照)が、これは必ずしも実証されているとは言い難い。
 
 もちろん、DNAワクチンが効果をあげるかどうかもまだわからない。
 こういった状況で、一つのワクチンばかり取り上げることそれ自体が、科学的でも公平でもない。

 これらのことを考えれば、大阪府・市、維新の会、アンジェスが一体となった宣伝の仕方はGCPという観点から見ても大いに問題があると言わざるを得ない。
 もちろん、これらの基準が法令ではなく省令や指針にとどまっているのは、研究活動は大学や民間企業の自主性に基づくものであるべきで、政府が過度に介入すべきでないという前提があることは理解できる。
 しかし、一方でGCPや研究倫理を国が推進していると言ってみても、実際に研究現場がそれらの基準に抵触していたとしても行政として実態把握の努力すら行われないというのであれば、一般消費者は医薬の安全性を信頼することができるだろうか?

 治験の公平性、客観性を担保するための仕組みや、それに誰が責任を取るのか、といった観点からさらなる議論が必要である。

 加えて言えば、米国FDAはCOVID-19など個別の疾患のワクチン開発に関してガイダンスを公表している。
 乱立する「新型コロナ・ワクチン」開発プロジェクトであるが、一定の整理が必要でもあろう。
 安全性の確保に関しては共通見解を表明した上で、企業間の競争については中立的な立ち位置を崩さない、というのが行政の態度としてあるべきなのではないだろうか?
 

 
 
 
 

2020年5月27日水曜日

種子はコモンであるべきである: 種苗法改定反対運動を支持する

このエントリーをはてなブックマークに追加
 現在、種苗法が議論になっているが、問題の本質は、その背景にあるUPOVと呼ばれる国際条約である。UPOV、正式には「植物の新品種の保護に関する国際条約」は1961年に締結され、たびたび改定されてきた国際条約である。目的は、種子の「育成者権」を知的所有権の一つとして認めることである。しかし、このことには国際的には長い長い議論がある。


 そのためには、まずコモン(ないし複数形でコモンズ)と言う概念を考える必要がある。コモンは、例えば「共有地の悲劇」などの語彙で有名だが、必ずしも「土地」と言うわけではないので、ここではカタカナで「コモン」としておく。元来、人類は生業に必須だが、一人ひとりで独占したり、管理したりすることが適当ではないものを「コモン」としてきた。例えば日本のような農耕文化では、水源や山林は入会地などと呼ばれ「コモン」として管理されてきた。放牧文化では、家畜を放すための土地もコモンであることも多い。また、ヨーロッパ人に土地を売ってくれと言われた先住民たちが、「土地を売る」と言う意味が理解できなかったと言う逸話が世界のあちこちで語られることがあるが、特に狩猟採集を生業の基盤とする文化では、「所有」と言う概念の方が特殊で、むしろ自然のほぼ全てが「コモン」であった。


2020年4月28日火曜日

『ふらっとライフ: それぞれの「日常」からみえる社会 』出版

このエントリーをはてなブックマークに追加


 ふらっと教育パートナーズ (編)『ふらっとライフ: それぞれの「日常」からみえる社会 』(2020) 北樹出版 が発行されています。

 元々は高専の人権教育の教科書として考えられていますので、高校生や大学の教養過程レベルの読み物として適切だと思います。

 私は、「第10章 命の源、水を守る人々: インド、ケララ州の社会運動の現場を巡る」を寄稿しました。同章では、南インドのケララ州の住民運動として、自分たちで水道をつくってしまったオラヴァナ村の話と、地域水源を奪ったコカコーラ工場に反対したプラチマダの人々の話を取り上げています。


2020年4月11日土曜日

COVID-19対応に憲法改正は必要ない

このエントリーをはてなブックマークに追加


 火事場泥棒とでもいうべきか、新型コロナウィルスによるパンデミックへの対応で、市民の社会・経済活動を抑制する、より強い強制力を発揮するために憲法改正が「極めて重要な課題」であるという発言が、安倍首相自身の口からなされた。報道によれば、日本維新の会の遠藤敬国対委員長に対する回答の中でのものである。Huffington Post が以下のように報じている


遠藤議員の「緊急事態に陥った際、国が国民の生活を規制するに当たって、ある程度の強制力を持つことを担保するにも、憲法改正による緊急事態条項の創設が不可欠だとも考えている」という発言に対し、安倍首相は「憲法改正の具体的な内容等について、私が総理大臣としてこの場でお答えすることは差し控えたい」とした上で、こう続けた。
「あえて申し上げれば、自民党が示した改憲4項目の中にも緊急事態対応が含まれており、大地震等の緊急時において国民の安全を守るため、国家や国民がどのような役割を果たし、国難を乗り越えて行くべきか、そのことを憲法にどのように位置付けるかについては、極めて重く大切な課題であると認識をしております」


 また、パンデミックへの不安の中で、有権者一般や著名人の中からもそう言った発言が出てきてもいるようである。
 これは、日本のパンデミック対応の基本法である「新型インフルエンザ等対策特別措置法」が、欧米の類似の対策と違い、市民に対する直接の影響力を持たず、要請に止まると言ったところによるものがある。例えば、欧米では外出禁止令が実効的な刑罰を伴った措置として施行されており、これを破れば警官に逮捕されるし、罰金や懲役などが貸されることもある。一方、日本でこう言った強制力のない法律での対応を余儀なくされる。


2020年3月2日月曜日

議会で対案を出すのは野党の仕事ではない

このエントリーをはてなブックマークに追加

 
 議会において対案を出すのは野党の仕事ではないし、真に重要な問題の場合、野党は対案を出せません。なぜなら、民主制というのは意見が違う、ということを前提としているからです。「意見が違う」というのは、良しとする社会の方向性が違う、ということです。そして、どの政党の「良しとする社会」を目指すか、というのは基本的に選挙のマニフェストを有権者が比較することで争われることです。議会というのは、当然選挙が終わった後に開かれるものですから、そこではすでに「対案の検討」は終わっている、ということになります。