そのためには、まずコモン(ないし複数形でコモンズ)と言う概念を考える必要がある。コモンは、例えば「共有地の悲劇」などの語彙で有名だが、必ずしも「土地」と言うわけではないので、ここではカタカナで「コモン」としておく。元来、人類は生業に必須だが、一人ひとりで独占したり、管理したりすることが適当ではないものを「コモン」としてきた。例えば日本のような農耕文化では、水源や山林は入会地などと呼ばれ「コモン」として管理されてきた。放牧文化では、家畜を放すための土地もコモンであることも多い。また、ヨーロッパ人に土地を売ってくれと言われた先住民たちが、「土地を売る」と言う意味が理解できなかったと言う逸話が世界のあちこちで語られることがあるが、特に狩猟採集を生業の基盤とする文化では、「所有」と言う概念の方が特殊で、むしろ自然のほぼ全てが「コモン」であった。
ただ、この「所有者がいない」と言うことは、もちろん無法地帯である、と言うことではない。「共有地/コモンズの悲劇」というのは、所有権がはっきりしない中で、各自がその資源を好き勝手使うと、途端に資源は枯渇してしまうと言う状況をゲーム理論的に記述している。しかし、多くの論者はこの議論を提唱したギャレット・ハーディンが、少なくともコモンの概念を誤解していると考えている。つまり、実際はコモンは共同体のメンバーが、様々な伝統や慣習などに基づいて共同で管理しているのであり、誰もが好き勝手に使っていいものではない。一方で、そういった慣習から自由なアクターが十分な力を持った時、ハーディンが指摘したような「コモンズの悲劇」は実際に起こりうる。つまり、そういったことは人々が慣習に縛られた伝統社会ではなく、近代社会において起こりうるのである。その最も大規模な例が、石油などの地球資源の濫用と、規制のない温室効果ガスの排出による気候変動といった問題である。したがって、グローバルな環境課税を行い、これらの外部不経済を管理することは、グローバルなコモンを確立することでもある。
世界中に存在していたコモンであるが、近代化に伴い、その数を急激に減らしていく。その端緒は英国で16世紀から18世紀まで断続的に行われた「囲い込み」(エンクロージャー)である。それまで、ヨーマンと呼ばれる自作農によって、複雑に入り組んだ農地が保有されており、また共有地も随所に存在していた。しかし、羊放牧や輪栽式農業の発達により、土地を集約的に利用することの経済的価値が上昇し、農民は土地を支配する地主(のちにジェントリー層を形成する)と小作農に分化していく。もちろん、農業が近代化することは、総量でみた生産性をあげるのであって、もし再分配が機能していれば、必ずしも悪いことではないかもしれない(後で触れる「多様性」という要因は別として)。実際、この時期英国の人口は増加し、産業革命のための労働力を都市に供給した。一方で、経済格差は悪化し、小作農であれ都市労働者であれ、生活は悲惨なものだったと考えられている(逆にこの経験こそが、自由主義のような思想を生んだとも言える)。経済格差の悪化には、エンクロージャーが貨幣経済を促進し、「成長社会」を発生させたからでもある。囲い込まれた土地は資本として、利潤を産み出し、それを蓄積した資本家が生まれる。資本家は蓄積した利潤を次の土地や工場といったインフラに投入し、さらなる利潤を得る。資本家と資本主義の誕生である。この「利潤を生み出すような資産」を資本家層が得ることをマルクスは本源的蓄積と呼んだ。エンクロージャーは本源的蓄積そのものではないが、その前提条件である。
さて、マルクスは資本家が誕生する歴史の一過程として本源的蓄積が起こり、その時代は終わったと考えていた。しかし、現代に至るまで本源的蓄積は続いていると考え、それを継続的本源的蓄積と名付けたのは第二次世界大戦前のドイツで活躍したマルクス主義思想家であり活動家であったローザ・ルクセンブルクである。この概念を使って、現代社会の、特に農村で起こっていることを分析したのがクラウディア・フォン・ヴェールホフである。ヴェールホフの議論によれば、「資本主義化すれば賃労働化する」という通説に反して、例えば南米の大農園などでは、むしろ賃労働に依存するプランテーションから、周縁に小規模農家を伴うラティフンディオ(大農園)が派生する。これは、例えばプランテーションという形で賃金労働者を囲い込むことに比べて、「労働者」のサブシステンスを独立した家庭という形で維持する方が安く済むからである。もちろん、そのからくりは、「支払われない主婦労働」に依存している、とヴェールホフは論じる。主婦化することによって、女性は権利主体としての労働者ではなく、生産財になるのである。
このような企業による「継続的本源的蓄積」は、現在も世界のあらゆる場所で行われている。公営企業の民営化などは、その顕著な例である。民衆の持ち物であった交通機関、学校、水道などは、「合理化」の美名の下に資本の生産財化されていく。
そして、もう一つ象徴的な事例が、生命体へのパテントである。遺伝情報などのパテント化はWTO協定等による国際法的な側面と、バイオテクノロジーの発達という技術的な面の双方から進められた。WTO協定が、特許化を世界各国に強制しなければ、企業は膨大な研究費を回収することができず、バイオテクノロジーの進捗は全く違ったものになっていただろう。例えば、レイチェル・カーソンは『沈黙の春』の中でDDTに変わる、自然と人間に対して害の少ない農薬として、生態系の中にすでに存在し、鱗翅類だけに機能するBT毒素の利用を代替案の例としてあげている。しかし、カーソンの時代に企業はそのアイディアに興味を示さなかった。それらが特許化できず、開発資金を投じたとしても回収することは難しいからである。しかし、遺伝子配列の特許が認められると、BT毒素を利用した除虫技術はあっという間に確立された。(あの世のカーソンがそのことを喜んだかどうかは定かではないが、私が推測するに「生態系の中にある物質を少量使う」ことと、現代的な技術によって大量にその物質が生み出されることは、本質的に異なることだと考えたのではないだろうか)
そして、特定の遺伝子配列ではなく、「品種的特性」を知的所有権の根拠にしよう、というのがUPOV条約である。UPOVは度々強化されてきたが、これに「現代のエンクロージャー」を見ることは、果たして筋違いであろうか?
そのことを考えるために(生物の)「種」と、農業用の「品種」の違いについてまず考えなければならない。種が違うということは、その間に遺伝子の壁が存在するということである。種が違えば、交配をしても子孫はできない。「孫世代ができない」と言うのが一般に受け入れられた種の定義である。例えば比較的近縁であるウマとロバは掛け合わせるとラバが生まれる。ラバはウマの社会性とロバの頑健さを併せ持つとされる。こうした、遺伝的に遠いものを掛け合わせて良い性質だけを引き出すことを「雑種強勢」と言う。そして、ラバは基本的に子どもができないので、ラバだけを増やしていくことはできない。
一方、品種というのは、同じ種類の中で特定の特徴を持った血統をいう。例えばサラブレッドはウマの品種であり、他の品種のウマと掛け合わせれば、雑種のウマができる。どの範囲を「品種」と言うかは、自然科学的問題であるよりは社会的な問題である。そして、「種」のジーンプール(遺伝的多様性の幅)よりも、品種のジーンプールは必ず狭い(下位集合である)。どの程度狭いかにもよるが、重要な点は、遺伝的多様性が小さくなれば、環境への対応能力は落ちると言うことである。また、近親での交配を繰り返すことによって(潜性の遺伝子が顕性化しやすくなるなどの理由によって)種全体の健康も失われていく。したがって、種の壁と違い、品種の壁は人為的なものであり、かつ一定の出入りが必要である。これは、これから問題にする農業品種でも、原理的には変わらない。もちろん、完全にクローンで提供できたり、あるいは今後合成生物学が飛躍的に進歩したりすれば事情は別だが、これは「別」と言うだけで、おそらくそれはそれで別種の問題が派生する。とはいえ、ここではその検討は行わない。
つまり、前提としては一般的な交配や、部分的なノックアウトなどゲノム編集で品種を作成することを想定する。遺伝子組み換えや、ゲノム編集でも明示的に他種の遺伝子配列や人為的な遺伝子配列を組み込む場合は分けて考える必要がある。と言うのも、それはUPOVではなく、特許制度で保護されることが前提になるからである。
ちなみに、現在市場を席巻しているのは(植物の場合、動物ほど種の境界がはっきりしていないので曖昧なことになるが)ハイブリッドないしF1と呼ばれる品種である。おそらく、もしみなさんが適当な市中の種屋さんに出かけて、栽培用の野菜などの種子を購入した場合、現段階では大半がF1品種であるはずである。これらは、動物のハイブリッドと違って子孫ができないわけでないが、孫世代からは子世代が持っていたメリットの多くが失われるために、自家採取して再利用する価値は小さい。一方、近年ゲノム編集などの技術で、F1ではない、優れた特徴を持つ品種が開発されることが増えており、これもUPOVを強化する必要性の根拠になっていると言えるだろう。
さて、UPOVで保護されるような「品種」は、したがって「境界線が恣意的であり、かつ遺伝情報としては出入りが必要である」ことを確認した。こうしたものは「所有物(プロパティ)」としてふさわしいだろうか? 実際は、人類の農業の長い歴史の中で、栽培植物の遺伝的多様性はコモンとして扱われてきた。この場合の「コモン」であると言うことは、誰もが、ある栽培種のジーンプールを利用して、交配と栽培によって自分なりの改良を加え、それを利用し続けていい、と言うことである。人間は様々な品種を農業に利用しており、特に穀類のような主要な品種は、地域ごと、あるいは親族ごとに守られてきた。「一つ」の品種というのは恣意的な数え方であるが、例えばある地域に数千の米の品種があることもかつては珍しいことではなかったわけである。
ところが、F1種の導入は、地域のジーンプールを減衰させた。種子は毎年買わなければならず、その経済的負担もさることながら、本質的な問題は、農民から「種子」の交配に関する知識を奪い、実験室でのみデータを取れるようにした、ということが問題である。もちろん、企業が採算も取れない数百、数千種類の品種を市場に供給するわけもなく、地域に存在する品種の数は絞られていく。そのため、F1の普及が進んだ70年代以降、世界各地で同時多発的に「シード・バンク」という非営利の運動が発生する。NGOなどが運営するシードバンクでは、地域の多様な品種を集めて保持しておき、農民の求めに応じてそれを貸し出す。農民は(著作権のクリエイティヴ・コモンズを想起すれば分かりやすいが)それらの種子を自由に栽培して良いし、翌年その「生きた」種子をNGOに返還することもできる。また、NGOに返す代わりに、知り合いの農民に種子を分け与えても良い。こういった形で、地域のジーンプールの多様性をメンテナンスすることが、シード・バンクの主要な役割である。
インド A.P.州でシードバンクを運営するNPOの展示 |
もしここで、農民が種子を残す評価基準を「市場経済」という一つしか持っていなかったら、品種的な多様性は大いに減退するであろう。実際は、市場価値を見据えつつ、乾燥に強いとか、逆に冠水しても生き残るとか、病気に強いとか、様々な理由で農民は種子を残すわけである。もしかしたら、儀礼的価値や単なる「ご先祖への義理」といった事情が種子のメンテナンスを続ける動機になるかもしれない。こうしたことが、伝統品種のジーンプールの多様性を保証する。
そもそも、F1にしろ遺伝子組み換えにしろ、その対象になる品種は(今のところまだ全く無から作物を生み出すという技術はない以上)多様な在来種の中から、グローバルな市場に都合の良いものを選んでいるに過ぎない。在来種の多様性を減少させることは、この「選ぶためのストック」を減らすということであり、大ヒット品種が誕生して市場がその品種に席巻されるということが生じたならば、商業的には大成功だが、遺伝的多様性の維持という意味では、必ずしも好ましいこととは言い難いのである。
一方、近代ヨーロッパは「合理的に」少数の品種を選択してしまう。19世紀半ばに、新大陸から移入したジャガイモへの依存を深めていたアイルランドは、ジャガイモの疫病が流行ったことによって壊滅的な打撃を受けた。しかし、これはごく少数の品種を栽培していたためである。ジャガイモの原産地であるアメリカ大陸の農民たちがジャガイモを育てる場合、地域には極めて多様な品種が存在し、また個々の農民も多様な品種を育てる(一種のポートフォリオをとる)ため、「全ての品種に罹患する」病気というのはあまりなく、こういった打撃は受けにくい。
こうした意味で、品種的な多様性は重要であり、我々は、単に商業的に優良な品種を開発する農家だけに報いるのではなく、栽培種のジーンプールの多様性を維持するような農業活動全体を支えるような制度を構築すべきである。それを考えたときにどうすべきか、明確な回答を安易に出すわけにはいかないが、少なくともUPOVや登録品種制度の強化ではないことは明らかであろう。それらは生命のエンクロージャーのために作られた制度であり、コモンを破壊するための制度に他ならない。
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