まず、夫婦別姓の婚姻が必要な理由として考えられるのは、婚姻によって得られるメリットが必要だが、一方で姓が変わるデメリットを回避したい、と言うことであろう。
1)公私にわたるアイディンティティの問題
2)経済的な問題
3)身体の管理に関する権限の委譲の問題
といったところであろう。
1)公私にわたるアイディンティティの問題
アイディンティティの問題としては、心情的なものも重要だが、公的なシステムの問題も生じうる。例えば、仕事をしていると名前を変えたくない、と言うことはありえる。わたしは学者であるが、学問的業績はグローバルなデータベース上に蓄積されて行く。これは、個人の業績を測定すると言う目的もあり、世界各地に蓄積された書籍や学術ジャーナルと連動しているものであるため、簡単に変更することは、もちろんできない。一方で、例えばパスポートなどは新しい姓のものになる。そうすると、例えばある学会への参加のための招請状は旧姓で発行され、それをもとにヴィザを取ろうとすると、パスポートは新しい姓になっている、と言うことが生じるわけである。これは、入国管理の厳しい国への渡航の場合、面倒を引き起こす。ちなみに、パスポートには旧姓を併記してもらうことも可能だが、併記する許可基準がよくわからないと言う不満も見聞きする(国立大学にいると有利だと言う説があり、私大に移る前にパスポートを更新する、と言う話も聞く。真偽のほどは不明である)。
他にも、公的な業務は本名が要求される場合もある。例えば国務大臣の発行する公的書類は戸籍上の名前で行う必要があるようで、日常の政治活動では旧姓で活動している大臣からの書類が違う名前になっていることはある。ただ、これは芸名やペンネームなどで活動している場合も生じうることである。例えば俳優で千葉県知事の森田健作氏の本名は鈴木英治であり、報道などでは「森田知事」の動向が伝えられる一方で、公的な書類の名義は鈴木英治知事になる。混乱が生じないといえば嘘になろう。むしろ、「公的な名前」をある程度自由に変更できるシステムが必要なのかもしれないとも思われる。
さて、夫婦同姓であることによる公的なアイディンティ認証の混乱があるとして、これらの問題を回避する最も簡単な方法は「婚姻届を出さない」ことである。これなら名前を変えたり、使い分けたりする必要はない、と言うことになる。この場合のデメリットは、第一に「婚姻関係にある」と言うことで得られる心情的な満足感と、社会的な便益を享受できない、と言うことである。「心情的な満足感」がどの程度重要かは人によるであろう。わたし個人の見解を申し上げれば、それが重要と言う感覚は、一切ない。
なお、朝日新聞の記事(「出産のたび『ペーパー離婚』 夫婦別姓訴訟原告、親権なしに不安」)では母親の姓を旧姓にしつつ、子どもの姓を父親のものにするために、出産のたびに婚姻届と離婚届を出し続けるカップルの話が出てきたが、これは必要がない。家庭裁判所の許可があれば、子どもは両親のいずれかの姓を選んで名乗ることができ、またこれは親権者が申請を代行することができる(民法第791条)。この制度自体は離婚のケースに対応するためのものだと思われるが、もともと結婚していなくても問題なく利用することができる。ただ、あくまで「家庭裁判所の許可をもらう」と言う形であるため、事情調査が行われる。これがうっとおしいと言う方は、「婚姻&離婚」を繰り返す方がいいかもしれない。
わたしの場合は、一人目は母親が家裁に呼び出されて事情聴取を受けたが、二人目の時は簡単に電話で確認があっただけである。
なお、事実婚である理由について問われて「現行の民法に反対で…」と答えかけたところ「お気持ちは分かりますが、社会生活上の事由、としておきましょう」といなされたらしい。それも間違いではないので、特に強弁はしなかったらしいが、民法反対という人も、裁判所としては実は結構慣れっこなのかもしれない。
この場合は、子どもの戸籍は父親の方に移動させることになる(この手続きも必要)。なお、親権や扶養などは別の問題であり、私たちの場合はこれには手をつけていない。
2)経済的な問題
次に、経済的な問題について検討する必要が生じる。婚姻届を出さないことによる経済的デメリットは、まず扶養控除などの問題であろう。また、相続の問題も考えられる。配偶者であれば相続において強い権利を主張できるが、事実婚の場合、他の権利者と比較してどの程度の相続分を確保できるか、心もとない面はある。これは、同性愛カップルが直面する問題と概ね同一である。例えば、婚姻届を出していないカップルが(同性同士であれ、異性間であれ)いて、片方の名義のマンションに住んでおり、その名義人の方が亡くなったと言う場合、そのマンションは別の親族に相続されるかもしれず、その結果、残された側は住む場所も失う、と言うことも考えられる。これが、事実婚のリスクであり、同性婚が必要とされる一つの根拠でもある。
とすれば、これは異性婚と言う制度の中で、別姓だけ許容されることで解決されるべきか、と言うことに関して疑念が生じるであろう。世の中には同性同士で生きたいものもおり、また生涯独身で過ごすものも増えてきた。そういった多様性に対応するために、男女の婚姻制度とそれをもとにした扶養控除、といった20世紀的システムが今でも維持されるべきか、と言うことは根元から考え直されてもいいのではないだろうか。ベーシック・インカムであるか負の所得税であるか、もう少しきめ細かい「必要性に応じた福祉」が可能かといったことも論点になるが、もう少し家族単位ではなく、個人単位の福祉と言ったことが考えられて良い。また、ともに住むことや相続に関しては、例えばフランスのパックス制度などが参考になるだろうが、「家族の多様なあり方」を可能にするような制度があっても良いのではないか。
3)身体の管理に関する権限の委譲の問題
最後に、これも朝日の別の記事(「『困った時に守られない』 学者夫婦、葛藤の事実婚解消」)で触れられていることだが、身体の権利に関する、主に病院における問題がある。これは、わたしも良くわかっていないので、実態がどうなっているのか識者の見解を聞きたい。
例示されているのは二種類の事例である。第一のケースは、親と子の姓が違う場合、予防接種や特殊な治療の際に求められる「保護者のサイン」に関して、本当の親であるか確認が必要になる、と言う問題である。第二のケースは、カップルの片方が倒れた場合、治療法などの決定に関して、病院はもう片方の決断を尊重してくれるだろうか、と言う問題がある。また、臨終の際に付き添うのは誰か、と言う問題がある。これも同性愛カップルの事例としてよく聞くことがあるが、相手の家族と折り合いが悪く、死に目に合わせてもらえない、ということが生じるわけである。
これに関しては、第一に、緊急の手術(であり、かつ本人の意識がはっきりしないことや未成年の場合で、十全なインフォームド・コンセントが取れない場合)などの場合、治療内容に同意できる家族、というのは誰なのか、ということである。これは、基本的には各医療機関がポリシーを定めていることと思う。例えば、同居しているかそれに近い知人がいるにもかかわらず、法的な親族関係がないため、日頃交流のない親族に頼んで同意してもらう、という行為は、果たして手続き論として、あるいは倫理的に妥当であろうか? 一方で、例えば付き添ってきて、家族であると主張したとして、その人が病人(/けが人)を代弁する立場にあると、どのように確認できるのであろうか? これは、保険証などから親族関係が推定できる場合を除けば(日常的に戸籍謄本を持ち歩いている人も多くはないだろうから)、実は極めて曖昧な処理が行われていることが推察される。
これに関しては、戸籍上の親族関係に拘らず、保険証などに「同意の権利」を付与する相手を記入できる、といった制度が考えられるべきかもしれない。
これらのことを考えると、私は夫婦別姓制度に賛成だが、それで救済できる問題は、極めて限られているのではないかと思わざるを得ない(種類が限られているだけで、カバーされる人口は多いかもしれないが、一方でそれは「稼げるヘテロ」というマジョリティに限定されているとも言える)。夫婦別姓推進運動が、これを最終目的と考えず、個人単位の福祉と言った、よりインクルーシヴな社会制度のためのマイルストーンと考えているならば、これは大変結構なことであるが、そうでないならより包摂的な解決策を目指す運動が構築されるべきだと思っている。
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