カイエ・ド・ドレアンス(from Wikipedia) |
1)「言論の自由」はデモクラシーの根源である
「言論の自由」はデモクラシー(民主制)の根源であると考えらえている。というのも、第一に自分のおかれた苦境について、そのことを表明し、社会に対して改善を求めることから始まるからである。もちろん、この苦境の原因には、上位者の社会的不正やより直接的な抑圧も含まれるであろうから、言論の自由が完全に認められないことは、それが社会的問題として認識されることを阻むことになる。
フランス大革命に先立って、Cahier de doléances (カイエ・ド・ドレアンス/陳情書)が三部会によって全国から収集された。特に第三身分(平民)からは生活の不満が多く伝えられた。アントニオ・ネグリに言わせれば、これが民主制の原点である。つまり、クレーム(異議申し立て)という言葉は、日本ではあまりいい意味に使われないことが多いが、弱い立場の人のドレアンス/クレームがどれだけ自由に出せる社会であるか、というのが民主的な社会であるかどうかの試金石である。もう少し定式的に言えば、身分や出自といった属性に係らず、全ての個人にこの「異議申し立て」の権利が認められ、その誓願が適正なプロセスで討議にかけられるか、ということが、世俗社会、近代社会、そして「社会包摂的な社会」の条件であり、逆にこれがエスニック・マイノリティやセクシャル・マイノリティであるといった事情によって排除される、というのが「近代国家ではない」ということである。どういったことが「適正な討議か?」という点は、第二項以降で説明される。
第二に、我々は言論を自由に行うことで「弁証法」が機能することを期待している。弁証法とは、ある意見に対して、それと対立する意見をぶつけ、両者を吟味することでよりよい(総合的な)意見を導きだす、という手法である。これは、古代ギリシャの思想家プラトンに遡る考え方であるが、しばしば「(西洋)哲学はすべてプラトンの注釈である」とも言われるように、この考え方は哲学の基本を形成している。まず先行する意見を「テーゼ」、対立する意見を「アンチテーゼ」、その両者をぶつけることによって生み出される新しい意見を「ジンテーゼ」と呼ぶ。たとえばディベートの授業などで、二つの対立する意見をランダムに割り振ることには、「自分の信念に係らず主張を言いくるめる能力を磨くため」という見方と、「自分と異なる意見でも詳細に吟味するため」という二つの側面がある。プラトンは、前者の意見をソフィスト(詭弁家)の立場であり、師であるソクラテスはソフィストと対立して後者の意見をとった、と述べる(ただし、二人と同時代の劇作家アリストファネスは、ソフィストとソクラテスの違いを認めず、両者ともにギリシャ青年の誠実さをを脅かす詭弁家であると考えていた)。
この立場に立てば、アンチテーゼの提示という検証を受けていない「テーゼ」はその正統性に疑念が残る、ということになる。議論において「全会一致は否決」などと言われる現代的意味はそういうところにある(元々は古代ユダヤの風習として知られていた)。従って、民主国家に置いては「アンチテーゼを提出する」という作業それ自体が、デモクラシーの健全性を担保するために重要な作業である。この「アンチテーゼの提出」を「批判(/クリティーク)」と呼ぶ。
馬上試合 (from Wikipedia) |
この「弁証法」はしばしば、闘技モデルで考えられてきた。つまり、乗馬し、槍と甲冑を身につけた騎士が二手に分かれて突撃し、勝負をかけるという「討議」があるとすれば、二人の賢者が異なる立場を主張し、議論を闘わせる「言論上の闘技」がある、ということである。そして、民主国家に置いては、武力ではなくこの「知力」の討議が社会的決定の根幹を担うべきである、と考えられるようになった。理由はいくつかあるが、第一に、「知力の闘技」では誰も傷つかない、と考えられたということがある(この見解は、後でヘイトスピーチについて述べるように、若干の修正を余儀なくされた)。また、武力での闘技による「決定」は、そもそもの問題の根幹との関連性が若干疑わしい、という面も理由である。つまり、例えばA王国とB王国の国境紛争で、両国が代表として選んだ騎士同士が決闘して、勝った方が領土を獲得するというのは、たぶん戦争をするよりは合理的な解決策であるが、賢者同士が歴史資料を付き合わせて議論することに比べると、やや納得感に乏しい、と考えられるようになって来たのである(その「合理的関連性」に対する洞察を得るということが、社会が近代化するということでもある)。最後に重要な点は、武力による闘技は社会にそれ以上の利益をもたらさないのに対して、知力による闘技は社会に蓄積をもたらすと考えられた。テーゼAとアンチテーゼBを検討した結果、ジンテーゼABが生み出されたとする、これは新たにテーゼABとしてアンチテーゼCと付き合わされ、ジンテーゼABCが誕生する。このように、ジンテーゼは新たにテーゼとしてアンチテーゼの挑戦を受けることにより、人類の「知識」は限りなく研磨され、凝集されていく、と考えられたのである。
2)言論の自由と知的所有権(特に「引用」概念)の関係について
さて、近代に入り、すべての知的生産物は、他の生産物同様、生産者が権利を持つ、という考え方が普及して来た。これは現代日本でも「著作権法」という形で担保されている。しかし、これはほぼ全ての国で同様であるが、その中で引用という条件だけは担保されている。これは、「ある議論を参照し、それに批判を加えることで、よりよい議論が生み出される」という先の弁証法が可能であるようにである。
引用の条件は一般には、必然性、主従関係、明瞭な区分、出典の明記等とされる。つまり、引用することが必要であり、かつ引用される文章が引用した著作者の手による地の文章に対して従属的な関係にあり、引用部分が地の文章と明確に区別でき、また引用元が明示されている、ということである。これは要するに、引用元がテーゼであり、誰かが発信するということは、それに対してアンチテーゼ、ジンテーゼを付け加えることである、ということである。従って、引用という慣行がなくなると、議論から弁証法が失われてしまうのであり、近代の「合意」として、知的所有権よりもこの弁証法プロセスによる知識の凝集のほうが重要である(あるいは、弁証法プロセスを放棄するとそもそも知的生産が不可能になる)と考えている、ということである。
また、現代社会では、後に述べる理由によって、全ての言明(意見表明)は政治的である、と表現される。この状況下においては、公表された意見はすべてテーゼとして扱われる(アンチテーゼの洗礼を受ける可能性に開かれている)と見なされるべきだ、ということになる。アンチテーゼはもちろん、ジンテーゼを導く理路が明瞭であるものである方が好ましいが、単なる罵倒にしか見えないケースもあるだろう。しかし、すべてのテーゼが(プライバシーの権利などの私権とコンフリクトを起こさない限り)いかなる形で表明されようとも自由であるように、原則としてすべてのアンチテーゼの表明のされ方も(プライバシーの権利などの私権とコンフリクトを起こさない限り)自由である、と言わざるを得ない。つまり、ある意見に関して「馬鹿な意見だ」と吐き捨てることは、ジンテーゼへの結合性が自明ではないと言う意味で好ましいことではないが、結合性が原理的に排除できるわけではない、という意味で否定はできない。それに対して「この意見を持つものは馬鹿だ」という意見は、文脈次第では別の権利(言われた側の私権)を侵害している可能性がある。この私権の侵害と言論の自由のバランスの個別の判断は、司法にゆだねられる。
なにが批判の対象になるかという点について言えば、著作権概念の中に「公表権」という概念が設定されている。これは、世界を公共圏と親密圏に切り分ける概念でもある。私が友人に出した手紙は、私と友人の間の「親密権」にとどまることを予定されており、そのなかでどのような表現を使っていようと、それは私と友人の関係の問題である(私が人種差別的な表現を使うことで、友人が怒りに燃えて縁を切る、ということはあり得る)。一方、不特定多数に公開する(公共圏に公開する)ということは、私が自分のテキストを、不特定の誰かからの批判を受ける場に提示するということでもある。この公共圏と親密圏の間は存在しない。出版(Publish) が「公的にする」(Publicare)というラテン語を語源にするように、出版することは公的にすることと同義である(Twitter や他のSNS でも、読者を友人に限定せずに書き込めば、対価を得るか否かに係らず、それは Publicare である)。公表/出版とはテキストを公共圏に押し出すことであり、それはテキストがすべての批判に開かれることを意味する。テキストは公共圏にあるか、親密圏にあるかであり、煉獄は存在しない。
逆に言えば「引用」の要件を満たすことは、批判であることを担保する。たとえば、誰かが私を単に「バカだ」と罵ることは、(仮に事実であるとしても)批判の要件を満たしているか判断しづらいが、引用の要件を満たして私が言ったことを再録し、その上で「こういう意見はこれこれの理由で馬鹿げている」ということは、従前たる批判/アンチテーゼの提起であり(その妥当性を問わず)、社会的には賞賛されるべきである。引用の要件さえ満たしていれば、「春日はバカである」でも「春日はベルゼバル神をあがめるカルトを支持している」でも主張していただいて構わないのであり、その真偽の判断はそのテキストと引用元とを比較する読者の考えに委ねられて構わないのである。
3)ところで、「正しい議論の仕方」とは
もちろん、引用をきちんとしているだけでは、正しい議論を形成しているとは言い難い。では、厳密に正しい議論の仕方があるか、というと包括的な議論はないが、今のところのコンセンサスとしては、ハーバーマスが論じた点が、最大公約数的な共通認識となっている。よく「理想的発話」として論じられるものである。一方で、「理想的」というだけあって、厳密にハーバーマスにしたがって議論することは実質的に不可能であるというのもコンセンサスといえる。逆に、「理想的発話」では取りこぼすなにかがあると人は考えているからこそ、芸術や感情に頼る、ともいえる。これら、芸術やその他の「非合理な」陳情をすべて却下するべきであるという前提を置くことは、デモクラシーを前進させない、というのも近年の合意事項である。
また、近代は聞き手の態度も求める。たとえばドナルド・デヴィドソンのいうチャリティーの原則、つまり誠実な会話において、聞き手は話者が一貫した、理性的で正確なメッセージを伝えようとしていると前提しなければいけない、という原則は重要な前提である。しかし、これにも若干の修正事項は発生している。ここでは詳細は論じないが「利益相反」は理性的とされる会話において相手の誠実さに疑いをもってよい条件を形成している。この「利益相反」概念が確立したのは、20世紀も終わりに近づいてからであると言ってよい。
いずれにしても、西洋哲学は「誠実で批判的な対話」の諸条件について、様々な考察を加えており、そういった原則の限界も明らかになってきている。ここでそれらについて詳細を論じる余裕はないが、一定の理想像としてそれらのイメージを担保しつつ、実際の対話においては「自分も対話相手も、決して発話を理想的な形ではおこなっていない」という覚悟が必要である。
4)ヴォルテール原則と「人を傷つける」ことについて
しばしばフランスの思想家ヴォルテールのものとされる(実際はヴォルテール自身はその言葉を残していない)言葉として「私はあなたの意見に賛同しないが、あなたがそれを表明する権利は命をかけて守る」というものがある。これは、これまで述べて来た理由によって、民主国家の大原則を表現するものとしてしらている。この見解は、確かに「全ての発言は批判的に検証されることによって、新たな意見の獲得につながるという価値がある」という大原則に照らして正当でもあり、必要でもあるように思われる。では、この議論で、差別発言も正当化されるのだろうか?
このヴォルテール原則の差別発言への適用は、ふたつの問題に直面する。ひとつは、古典的課題であるが、「社会包摂のため、すべての人に異議申し立ての権利を認めるべきだ」という原則と、社会排除的な差別発言が矛盾を来さないか、という問題である。そこで、社会排除的な発言は禁止する、という解決策を取り入れることは検討に値する。しかし、国家が差別発言かどうかの検閲の権利を得ることは、単に差別発言だけではなく、すべての「完全な言論の自由」という概念に傷を付けるのではないか、という疑念は起こるであろう。
これにはいくつかのレベルで解決策がある。第一に、強い自由主義とでもいう立場がありえる。つまり、国家が担保すべきは「誓願の権利を妨げない」ということだけであり、他の社会セクターからの障害はその誓願者自身が自身の責任で排除することを求めればそれで十分である、という立場である。第二に、市民連帯による自由主義の擁護(弱い自由主義)とでも呼べる立場があり、国家の検閲の権利は否定するが、社会排除的な発言に関しては、NGOの活動や市民による発言者への批判など、「言論活動によって対抗する」ことが大事である、という立場である。これはアメリカ合衆国などで採用されているといってよいが、強い社会運動が必要になる。この中間形態として「差別発言者は、ただし先験的にその対象が社会包摂の権利を持つことを認め、その権利を尊重することを合意した上で、差別発言を行うならばよい」という議論は可能ではあるが、極めて特殊な状況以外にはこれは妥当な見解ではなさそうである。
最後に、発言になんらかの法的制限を加える条件があるのだ、という議論もありえる。これは、国家の権利を拡張するロジックであるため、慎重な扱いが必要である。そこで、ヘイトスピーチという概念が誕生する。
5)ヘイトスピーチと単なる差別発言の差について
「言葉も人を傷つける」と言われるが、単に「傷つける」だけではそれを禁止するのに十分とは言い難い。逆に、あらゆる言葉が人を傷つけうる(たとえば、あなたが「安部首相を支持しない」ということは、自民党の熱心な支持者である誰かを傷つけるかもしれない)のであり、傷つけることを理由に規制できるようになってしまったら、言論の自由の担保は不可能になるであろう。基本的に傷つけるかどうかは私権の問題とみなされるべきである。
一方で、近代化の進行は「差別」概念を拡張してきた。19世紀であれば、人種ごとの生物学的性質に関する議論が差別的であるかどうかには議論があったが、現代社会においては、それはそれ自体が差別的であり、非難されるべきであるというコンセンサスが形成されている。フェミニズムはしばしば「個人的なことは政治的なことである」と主張するが、これは、男女をめぐる力学が個人の生活の中に浸透する形で作用しているからである。男女が結婚に際してどちらの姓を選択するかは個人的な(両者の間の親密圏の)選択だが、マスに見れば圧倒的に男性の姓が選択されるという事実は、それが政治力学を反映していることを示している。したがって、差別の中から、特に規制にたる発言を厳密に定義することは可能だろうか、というのは当然の疑問である。
そこで、「ヘイトスピーチ」という概念が誕生する。ヘイトスピーチは、「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」という概念が先行している。憎悪犯罪は、日本では一般的な言葉ではないため、ヘイトスピーチだけが突出して普及してしまっているため、混乱が生じているように思われる。ヘイトクライムとは、単純に言うと「属性によって行われる犯罪」である。たとえば、ジョンが「ラシードに恋人を寝取られた」という理由でラシードを殺すのは通常の「殺人事件」であり、「ラシードを殺してやる」と叫べば脅迫である。しかし、ジョンがラシードと個人的な利害関係を持たず、単にラシードがイスラム教徒であるという理由で殺せばヘイトクライムであり、ラシード個人を特定せずに「イスラム教徒を殺す」と主張すれば、それはヘイトスピーチということになる。
強迫行為の場合、特に立法の必要性は明らかである。すなわち、ジョンがラシードに「殺してやる」と言えば、それはラシードに対する脅迫罪ということになる。しかし、「イスラム教徒を殺してやる」という主張は、果たして誰かに対する脅迫罪になるだろうか?(日本ではこういった「抽象的な強迫行為」は「威力業務妨害」という、どうとでもとれる法律で対処される傾向があり、これはこれで好ましくないと思う)。
「言論の闘技」モデル(それは実際には人を傷つけないとされた)やヴォルテール原則は、言論と実力行使の間には明示的な線が引けることを前提としているが、ヘイトスピーチはヘイトクライムと結びついている。過去にヘイトクライムが行われたという実績があれば、現実のヘイトクライムが発生していなくても、ヘイトスピーチを許容するる社会では、それが自分の身に起こる可能性を考慮しないのは難しい。その結果として自らのアイディンティティを隠し、「請願の権利」の行使を控えるようになれば、民主的で社会包摂的な社会は崩壊の危機にさらされる。
したがって、ヘイトクライムとは属性を理由にした犯罪行為であり、ヘイトスピーチとはその予告や、それを正当化したり扇動したりする言説の流布、と定義するのが好ましいであろう。すべてのヘイトスピーチは差別を内包するが、差別的発言のすべてが「脅迫的、扇動的」とは認められないのであり、ヘイトスピーチは差別に包含される概念、とうことになる。また、差別は不適切な罵倒発言だが、不適切な罵倒発言のすべてが差別的であるわけではない(また、実際は表面上は極めて礼儀正しいが、対象者の社会的排除を含意する発言もありうるが、こういった発言は「礼儀正しい罵倒」とでもいうべきであろう)。
日本社会ではヘイトクライムがアメリカに比べて多くはなく、したがってヘイトスピーチ概念の導入の意義も薄い、という議論は妥当だろうか? 実際は、「属性を理由にした犯罪的行為」は常に起こっている。そもそも関東大震災のときの虐殺行為などのヘイトクライムの歴史に思い至らないということが、ヘイトクライムがあったということ以上に、危険なことであろう。
6)社会包摂のための戦略の構築
さて、ここまで議論してきたことを念頭において、最初の「請願の権利の十全な保障」という議論に立ち戻ることが重要である。我々は、我々の社会における「言論の自由」をどのように維持していくべきであろうか? この観点から、なにを差別とすべきか、どのような用語や議論を社会が担保すべきか、そして「ヘイトスピーチ」の規制を法的に導入すべきか否か、議論すべきであろう。