文部省の中の人が「改正研究開発力強化法」で雇用契約法上の常勤雇用義務がかかる年限が研究者に関して例外的に延長されたことに関して、専業非常勤を含む若手にも利益があったと認識しているという話を某所から聞いた。
これはちょっと酷い話で、この手の義務が生じる年限が「長くなる」というのは雇用者側に有利で、短くなるのは被雇用者側に有利であるというのは当然のことであろう。
どうも、大学関係者は雇用/被雇用関係が重層的なせいもあるのか、労使の利害対立という面に(某ブラック企業経営者なみに)鈍感なところがあるのは知っていたが、役人というのはもうちょっとリアリストかと思っていたので、それを本気で言っているとしたら意外というか、残念な感じである(むしろ鉄面皮なポジション・トークであると説明された方が、日本の将来に安心できる感じ…)。
常勤雇用義務が生じる年限の「延長」は基本的に、ポスドクや非常勤講師側の利益のために行われていたのではなく、法律の枠組みが「研究開発力強化法」であるとおり、使役する側の利便性向上という側面が大きいということは、ごまかされるべきではないと思う。
もしある人のキャリアを構想した場合、「安定した雇用期間」が5年か10年かというのは本質的な問題ではなく、定年までの雇用が保障されないのであれば、キャリア・チェンジのための時間的空間的余裕がどの程度あるか、ということである。
そのためには、直上の教員の言うことに唯々諾々と従うより、自分でキャリアを構想してスキルを磨く、という習慣を維持できる環境が整えられることがなにより重要である。
もちろん、十年の延長が「ある程度長期の契約を結ばなければいけない」(例えば5年を延長する場合は、その後に関しては5年契約にしなければ行けない)という縛りがあるのであれば別だが、実際は3年ごとの細切れ契約になることが予想される。
その場合、直上の教員の、個々の若手研究者に対する支配力はかえって強まるのではないかということを危惧する。
従って、(予算の制約内で可能な)若手サイドに利益のある変革というのがあるとすれば、
・業務の定義と残業の禁止の厳格化
・自分の研究だけを行える時間割り当て(通称 Google 方式)
・明示されたテニュアトラック試験制度
・契約終了後(別の組織への)再雇用状況の調査と比率目標
…といったことの制度化、法制化といったことがあげられるだろう。
こういった変革は、たぶんエライ人がよく言う「日本にも Apple や Google を」みたいな方向性にも合致すると思うのであるが、何故か(いや、たぶん単にめんどくさいからなんですが)誰もやろうとしないわけである。
しかし、前にも書いたが、十年の延長の例外規定という「重さ」を考えれば、少なくとも「テニュア・トラック審査の導入(と一定の採用比率)」を延長の最低条件として課すことは必要だったように思う。
もちろん、十年にのびたので、例えば55歳になった国立大学の教員は自動的に「非常勤」の枠にうつって、「定員」枠を若手に開ける、ということがあれば十年延長も有効に機能するかもしれない。
ただ、それでは常勤雇用側のインセンティヴが働かないので、例えば科学技術振興調整費等に関して「助成額1億円以上の研究プログラムの代表者は常勤雇用であってはならない」等の制限を課すことは効果的であり、かつ「流動性を優れた研究成果をあげるためのインセンティヴにする」という基本方針にも合致すると思われる。
逆に、セイフティーネットとして「昇進も昇級も無い」(そういうのが欲しければ転出するか別に稼げ)というポスト・ポスドク・ポスト(ややこしい)を設置することも必要であろう。
これは、セイフティーネットだけでなく、競争の激化により「研究者がピアの評価を過度に気にする」ことにより学問の幅が狭まることを避けるという目的もある。
今後ダブつくポスドクを最大一万人とみて(実際は、他の施策と組み合わせてもう少し圧縮すべきであろうが)、この一万人には一人当たり500万円(社会保障込みなので、収入としては400万円台、手取りで400万を割り込むぐらいか…)ぐらいの予算措置をするとしても500億円であり、他の大型研究費と比較しても正当化できない額ではないように思う。
以下は半ば以上冗談だが、この予算が難しければODA枠にわりふって、たとえば「東京大学アビジャン校」とか「ハラレ校」とかをつくり、そこを任地とすることを条件の予算化を試みてもいい。
ダブつくポスドクはバイオ系が多いので、研究機関が相対的に少ない「新天地」はいろいろな研究のネタが転がっているだろうし、もちろん現地の教育をある程度になうことも期待できる(キャッチフレーズは「君もジンバブウェのクラーク博士になろう。ドクターズ・ビー・アンビシャス!」でいこう)。
…再度言っておくと、これはもちろん冗談半分だが、こういった冗談ネタからいくつもの可能性をブレストしてみるのは必要ではないかと思う。
なぜなら、日本の「戦略」はしばしば「国際的な基準」(おそらくその存在自体が日本国内でのみ通用する一種の共同幻想である)に合致した上位層をどう抜き出すかということに集中しがちだが、もし国家レベルでの「研究開発力強化」というものが可能だとすれば、それは上位層の操作というよりも、質的にも異なる様々な人材を、その特性に応じてどのように配置して行くか(厳密には、各自がそれぞれ持つキャリア戦略に応じて動くことによって創発的に発生する「人材配置」をどう有機的に機能させるか)、という問題として捉えるほうがおそらく多少は生産的だからである。
これらの改革は、(審議会などの形で)政策に関与しうる教授たちにも一定のリスクを割り振ることになることになるので、若手にのみリスクを付与するこれまでのやり方より調整が難しい、ということはあるのだと思う。
しかし、少なくとも政治家なり誰かが実効的な政策討議の場で提案ぐらいしてみてもいいのではないか、と思う訳である。
あと、「専業非常勤」については、そもそもそういうカテゴリーが存在すること自体が大学教育にとって(例えば学生の教員へのアクセスのしやすさを考えても)望ましくないので、例えば「大学教員派遣機構」的なものを(公的にか、あるいは複数の大学の出資による私企業としてか)設置して、今非常勤で一定程度収入を得ている人はそこに収容するのがいいように思う。
もしかすると構想自体に無理があって早々に経営破綻に追い込まれるかもしれないが、その場合でも機構に雇われていた人には失業保険や職歴(ばかばかしいが日本ではそういうものが重要らしいので)は付くので、多少はマシであろう。
もちろん、私企業として行う場合、経営者に経済リスクが付く訳だが、これは今は専業非常勤が個々に追ってしまっている経済リスクを法人に付け替え、集合化することによりマネージしやすくするということである。
日本の大学はかけ声だけの「民間のセンス」じゃなくて、例えばそういうリスク・マネージメントをどう行うか議論を積み重ねる、という発想がもうちょっと必要なんじゃないか(それがなければどこぞの市長の大学政策を馬鹿にする資格はないのではないか)、と、サヨクの私ですら思う訳である。
ちなみに「ヴェンチャー」(ヴェンチャー・キャピタルやエンジェル)というのは起業リスクを「能力のある若者」から切り離して誰かが負担するというシステムであり、こういったリスクのマネージメントで世界をよくしていく(ことができる)と同時に「機会の平等」を確保する、というのが「リベラル」ということであり、それだけでは十分ではないので再分配による結果の平等を確保しようと言うのが「ソーシャル」という立場である。
そういう意味では、日本にはソーシャルが居ない以上に、「リベラル」がいないわけである。
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