2012年12月30日日曜日

フランス緑の党 全国書記パスカル・デュラン氏のお話(2) 党組織について

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 後半、組織構成についてお話を伺いました(前半はこちら)。


 フランス緑の党は現在、国政に17議席を有している。このことにより、だいたい300万ユーロの政党助成金が入ることになる。フランスに於ける政党助成金は、得票数に比例した部分(だいたい1票1ユーロ)と、補助政党助成金として、議員数で増える部分がある。後者は不公平な制度だと思う。また、政党助成金を得るにはいくつか前提条件があって、例えば候補者が50人以上いる、といったことである。例えば極右の国民戦線は大統領選で18%の得票を得ているが、国政では議席数が2に留まっているので、政党助成金は貰えない。
 この政党助成金は一部が地方組織に回るが、それ以外が組織を支えており、緑の党には現在15人ほどの専従職員がいる。

 また、主要な財源としては、党員から得られる会費がある。これは、最低年36ユーロから始まり、収入比例である。また、例えば国会議員の場合、月収は(年齢等によって多少違うが)7000ユーロほどになり、このうち1200ユーロを党に納める。会費を集める主体は、全国に22の地域圏ごとにある地方組織であり、ここが集めた党費の1/3が全国組織に上納され、のこりは地方組織の予算に使われる。地域の下に地区(ローカル)グループが組織される。これは、通常は市町村などの単位で組織されるが、五人以上いれば結成できるというルールになっている。オプションとして、地域圏組織とローカルの間に県単位の組織も選択できるが、これはオプションであり、多くはない(現在、県単位の組織があるのは15個ほどである)。フランスは一極集中国家であり、人口と経済の多くはパリを含むイル・ド・フランスに集中しており、それ以外の地域でもリール - パリ - リヨン - マルセイユ の線上とそれ以外では規模の格差は大きい。また、緑の党の会員もそういった「都市にすむ高学歴(Bac + 5)の若者」であり、田園地区に浸透しているとは言い難い。
 基本的には社会党等の中道左派政党との連携を進めており、19の地方で赤緑連合政権がある。
 党運営の基本構造は図のような感じである。


 党員は約10,000人。これは、他の国政政党と比べると一桁小さいが、例えば共産党の党員が高齢化していたり、あるいは与党になると職を目当ての入党者が増えたり(例えば国民運動連合は与党時代の30万人から野党時代の10万人まで乱高下している)といったことがあるのに比べると、デモやキャンペーンなどに積極的に参加する極めて熱心な党員が多いと言う点で、他の政党からは脅威と見なされている。基本的に、ローカル、地域圏、全国の三階層からなり、それぞれのレベルで議会と執行部を持つ。また、緑の党は伝統的に兼職を嫌うので、基本的に階層間での兼職はない(この点が他の政党との違いである)。また、国政レベルでは議員と党内役職の兼職も禁止であったが、これは議員になる人は党内でもリーダーシップを発揮できた方が良いということで、全国議会の25パーセントまでは議員が兼職することが可能という規定にかわった。
 全国組織の基本構造としては、一般党員が一人一票で4年にいっぺん行われる代議員総会の出席者1,000人を選出する。 この1,000人という数は議論が現実的に行える上限であると言うことである。また、実際問題としてこれ以上の規模の会場も見つけるのは難しいだろう。この代議員総会から、全国議会が選出され、全国議会が党の方針を決める。代議員総会の議員は、基本的に議会を選ぶだけの存在で、他にいっさい党内での権限が発生しないように考えられている。
  中央組織は議会と執行部からなる。執行部は15人である。現在の執行部の序列第一位はセシル・デュフロだったが、彼女が大臣になったため第二位のデュランが全国書記に昇格した。この全国書記が、フランス緑の党の代表者である、ということになる。
 こういう組織であるから、屡々セクター間の対立が起こる。ただ、方向性の合意はあるし、基本的には役割は明示的に分離されているので、それが深刻な問題になることはあまりない。対立は、「例えばオオカミが絶滅したエリアに、生態系の健全化のためにオオカミを戻す」という政策への賛否の例がある。国政レベルでは緑の党はこれに賛成したが、地方レベル、特に牧畜関係者の多いエリアでは反対意見が多く、党内で紛糾した、という事例はある。また、党執行部と国会議員団も別組織なので、ここでも屡々意見の対立が見られる。党の最高責任者は執行部の第一位である全国書記であり、例えば大統領に謁見するとか、メディアのインタビューに答える、というときは、全国書記の意見が党の意見と見なされる、というのが公式の立場である。一方、国会において実際の投票活動を行うのは国会議員であり、ここで彼らの主張と執行部の主張が微妙に異なる、ということが見られる。典型的には、国会議員団はどうしても連立を組む社会党の主張に融和的になり、執行部が原則路線を主張する、という傾向はある。執行部が比例の順位を支配できるようなケースと違い、小選挙区制のフランスでは、国会議員団と党執行部の関係は微妙なものとなる。ただし、これも決定的な対立というような話はこれまではない。例えばかつての共産党などの左派政党が連発したような「除名」という手段を採用せざるを得ないような局面は訪れてはいない。

2012年12月28日金曜日

フランス緑の党 全国書記パスカル・デュラン氏のお話(1)

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 以下、フランス「ヨーロッパ・エコロジー=緑の党」(以下、緑の党)の事務局長(全国書記、代表に相当)のパスカル・デュラン氏のお話。音声を取っていたわけでもなく、写真撮ったり質問したりしながらだったので、手元のメモを利用して再現しているので、順番などは正確ではありません。自分の聞きたかったところだけピックアップしている側面も…。まぁ、参考まで、ぐらいで…。



From Wikipedia
デュラン: 選挙に関しては、連立型でいくか、緑の党単独で行くか、という選択肢がある。これは困難な選択で、独立型は独自政策を貫けるが、フランスが小選挙区制であり、小規模政党単独での当選は通常極めて困難である。一方で、連立に関しては、当然不本意な政策を受け入れざるを得ず、党内外からの批判を受けることになる。これまでも、社会党との連立に関しては、重要なパートナーであるジョゼ・ボヴェヴィア・カンペシーナのようなアルテルモンディアリスム系の団体からは「リベラル」という批判を受けてきた(筆者注:マクドナルド襲撃で有名な活動家ジョゼ・ボヴェの活動母体はフランス農民連盟という団体であり、同団体はヴィア・カンペシーナという世界的な小規模農家の団体に加盟している)。
 またフランスが強力な中央集権国家である以上、国政に進出しなければ実質的な政策には関与できない。2007年のフランス総選挙では緑の党は独自路線を貫こうとして失敗したという側面がある。そこで、2009年の欧州議会選挙ではダニエル・コーン=ベンディットと私(パスカル・デュラン)が中心となって、なるべく広い勢力が参加できるような枠組みを提案して「ヨーロッパ・エコロジー=緑の党」として挑んだ。欧州議会選挙は各国毎の比例制という、比較的緑の党に有利な選挙形態であることもあり、これは満足のいく議席数を確保できたと思う。
 いずれにしても、フランス国内では議席を得るためには連立は欠かせない。また党執行部や国会議員は連立路線を望んでいる。ただし、緑の党の一般的な支持者で連立を望むものは多くはないと見られている。例えば支持者の間には「左派と連立を組むことが多いが、私は左派ではない」という主張や、「連立を組むことによって魂を失ってしまう」という主張が見られる(なお、ある調査によれば緑の党の支持者層のうち、4割程度が自分を左派であると認識しており、1割程度が保守であると認識している)。このねじれは非常に重大な問題である。
 また、緑の党の多くはバカロレア後5年以上の教育を受けた層(Bac + 5)である(筆者注:日本では修士以上、ないし医師や弁護士層に相当するであろう)。農村や都市周縁部、労働者階級に支持されていないというのは緑の党にとって重要な課題である(筆者注:アメリカだと都市周縁部/郊外は富裕層が住むというイメージだが、フランスではゲットー化している地域というイメージがある)。これは、緑の党の政策が短期的にはフランス国内で800万人といわれる貧困層の状況改善や、欧州全土で2500万人と言われる失業についてなんら寄与しない、すなわち経済的メリットがないと見なされていると言うことである。経済、雇用創出にエコロジーが寄与するということを労働者層に説得できていないのである。いっぽう、緑の党の主要な支持層である Bac + 5 は、短期的な経済政策よりも長期的な地球環境の持続可能性といった問題を重視する傾向はある。
 そこで、我々は現実を直視する必要がある。有権者の大多数はエコロジストではなく、我々は少数派である、ということである。なので、社会党との合意点を見つけて、連立を組むという意外の選択肢は現実的とは言えない。これは倫理的な戦略である。こうしてできた連立政権による政策は、もちろんエコロジーな法律とは言い難いが、一方でエコロジーな方向に影響を及ぼしていくことはできる、ということである。具体的には原子力の比率を下げ、有機農法への支援を盛り込み、飛行機よりも鉄道を優先する、といったことである。具体的な連立は政党間の協定となり、個別の選挙区毎に協定先を変えるということはない。

 2007年の大統領選で、環境に関するテレビ番組のプロデューサー兼レポーターとして有名なニコラ・ユロが「エコロジー協定」というプロジェクトを行った。これは、大統領選の候補者に環境に関する10項目からなる協定書に署名し、当選後はそれを履行するように迫るものであった。75万人の有権者がこれに賛同し、有力な候補者たちが署名を拒んだ場合はユロ自身が大統領選に出馬するという声明も出された。結果的には、この選挙で大統領に当選するニコラ・サルコジを含めて主要な候補者のほとんどがユロの協定に署名した。しかし、当時の緑の党はこの協定というアイディアそれ自体に反対した。つまり、環境とは基本政策を変えずに断片的な賛同によって達成できるようなものではない、という主張である。しかし、この主張は有権者の非難を招き、緑の党の党勢退潮という結果を招いた。
 そこで、2009年の欧州議会選挙はダニエル・コーン=ベンディットや私(パスカル・デュモン)が「緑の党に依拠しない、結束のための枠組み」ということで、ヨーロッパ・エコロジーという枠組みで選挙態勢を組み、結果的には緑の党もこれに合流する形で幅広い社会運動の連帯が可能になった。設立時点ではセシル・デュフロが執行部の第一位に選出され、代表(事務局長)に就任したが、デュフロが地域間平等・住宅大臣に転出したため、第二位であった私(デュモン)が昇格した(緑の党は原則として兼職を嫌うため、党執行部と大臣、国会議員等は兼職しない)。現在までの所、フランス緑の党は北欧、ドイツ型の「男女一名の共同代表制」はしいていない。私はそうするべきだと思うが、党内の合意は取れていない。

 (このあと、フランス緑の党の組織構造の話が入りますが、そこは別の記事で)

 2014年に選挙があるので、来年臨時の代議員総会を行う。選挙がなければ総会は4年おき。この総会には全国約1万人の緑の党党員から選出された1000人が参加し、15人の執行部を選出するなどの決定を行う。今回から、選挙だけでなく、20名は完全にランダム(選ばれたい党員は名簿に登録し、そのなかからくじ引きで20人を選ぶ)という方式も採用することにした。ただし、この1000人は執行部を選ぶためのもので、原則として代議員総会後は解散と言うことになる。また、代議員はクォータ制を採用しているので、人数比率は男女1:1にならなければいけない。
 選挙と言うことでは、Bac+5以外の人々にどう支持を広げるかが課題であり、経済と環境の問題をどうアピールするかが重要である。

【質問】環境重視と言っても、環境ベンチャー等で経済を活性化していく、言わばデンマーク化するという方向性と、脱成長(decroissance)を追究すべきだという路線がありうるが、緑の党としてはどちらを重視していくのか?

デュラン:それに答えるには、まず自分たちが何故選挙をやるのか、ということを自問する必要がある。民衆の啓発のためなのか、現実の政治に力を及ぼしていくということなのか? 後者だとすれば、我々は有権者の前で「デクロ」というべきではないということだ。
 一方で、フランスにおいて現実に環境ベンチャー等の経済規模が大きくなるという見込みは大きくない。エネルギーの比重は著しく原子力に偏っており、資金も原子力に集中している。リサイクル産業なども、ほぼ全ての製品が実際の製造過程を中国などにアウトソースしている状態で、あまり大きな経済規模は期待できない。雇用創出のための環境主義、という期待はフランスでは難しい面があると思う。
 なので、我々は現実的になり、他党と幅広く連携し、既存の政策を環境に配慮したものにしていくように修正していくということから始めなければ行けない。なので、我々は相手よりも有能になる努力をしなければ行けない。有権者に強い「雇用主は悪い人で、労働者はいい人」、「産業界はすべて悪い」といったイメージに依拠するのではない活動を行わなければならない。

【質問】では、日本では原発事故と中国脅威論が同時に起こっている結果「環境主義的な極右」という立場もありうるわけだが、国民戦線が環境に配慮するといった場合、連立などの形はあり得るのか?

デュラン:我々は「連帯と人権」を前提に活動を構築してきており、その大前提を共有していない極右との連携は絶対にあり得ない。また、極右の側がそういう選択をする可能性もフランスではほぼないだろう。もちろん、指摘されるとおり近年極右が我々の政策を取り入れる、ということは見られる。双方が支持する政策は、例を挙げれば国際貿易に関する保護主義のようなものである。しかし、彼らが例えば「中国」といった属性を問題にするのに対して、我々は消費地までの回路(資源の移動距離)や、生産体制における環境や人権の問題といったことを総合的に評価して、適切な規制を行うべきだ、という立場であり、結果的に似通っていても哲学的前提はまったく違うものである。このことはお互いに了解していると思う。

※以下、できれば組織についてのほうもエントリーに…(→後半公開しました
 あと、ずいぶん前に書いたスウェーデン緑の党ペール・ガットン氏のお話もご覧ください。
 ・スウェーデン緑の党Per Gahrtonさんと語る会(2006年7月9日)報告

2012年12月20日木曜日

被ばくのリスクについての覚え書き

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 Twitterでの議論から多少時間がたってしまいましたが、総選挙も終わり(あと、個人的には飯舘村の選挙なども終わり、というところも重要なのですが)、いったん自分の考えを述べてもいいころあいかとも思いますので、まとめておきます。


(1)
 まず第一に、リスクの受容には「意味」がある、ということです。リスクは必ず利益(benefit)と対で考えられる、ということでもあります。例えば、あるサラリーマンは「仕事のためにLCCにのるリスクは受け入れがたいが、趣味のダイビングに行くためならLCCも我慢する」というかもしれませんし、逆にその人を雇用している社長は「仕事なんてコスト削減してなんぼなんだから出張はLCCで行くべきだが、自分が楽しむための旅行はリッチに…」と考えるかもしれません。労使の間でコンフリクトが発生するでしょうが、どちらを正しいとも言い難いわけです。
 同様に、自然物が上昇させるリスクと、誰かが(おそらく自分の利益や欲求のために)上昇させるリスクでは受容する側の意味が違うわけです。例えば、山登りのリスクを受容する人も、家の前の道路が山登りと同じようなレベルのリスクであることは批判するでしょう。また「この登山道では落石で怪我をするリスクが一定あると見込まれるので、自分が一個石を蹴落とすぐらいなんてことないだろう」と考える人は居ませんし、実際「自然に、あるいはなんらかの不可抗力によって落ちてきた落石での怪我や死」と「誰かがわざとおとした石での怪我や死」は、被害者にとってまったく違う意味を持つでしょう。
 一般的には、コントロールできないリスクはより高い脅威として認識される、などの指摘があります。例えば、タバコや自動車は「使わない」という選択肢がある(厳密には副流煙や、歩行者として巻き込まれるわけですが…)という感覚が、大気中の有害物質というような「否応なくすわされるもの」に比べると、同じくらいかより高いリスクでも許容度を上げるわけです。
 なので、リスクというのは単純に数値で比べるべき問題ではなく、リスクに晒される個々人の心理的・文化的・社会的・経済的諸要素によってその評価は(二桁三桁は)かわってくるものだ、という認識が必要かと思います。

 なので、今回の場合のように社会的な影響が広範囲な場合については、安易に「このリスクはこうだ」という結論に飛びつかずに、なるべく多くの人が参加していろんな要素を加味して考えるのが良い、ということです。

 さて、こうした議論が行われることになった場合、いくつか留意すべき論点があります。ひとつは、行為遂行的発話=パフォーマティブな発話、という問題です。これはオースティンという哲学者の言葉ですが、言明は言語内的な意味だけでなく社会的な意味を持ちうる、ということです。例えばABの間で「このステーキ、味が薄いね」「テーブルの上に塩があるね」「ちょっと塩まで手が届かないね」という会話が行われたとすれば、文字通りにはそれぞれの言明は事実の記述をしているに過ぎませんが、実際は「なんか味付けないかな?」「塩を自分で取りなさい」「いや、とってよ」という会話がなされている、と解釈するのが普通であろうと思われます。一方、同じ「テーブルの上に塩があるね」が、部屋の大掃除中に行われた場合は、我々は「その塩を片付けて欲しい」というメッセージである、と文脈に応じて発話の行為遂行的な意味内容を解釈しなおすわけです。
 同様に、あるリスクの定量的な判断も、それがどのような場所で、どのような人間関係の中で表明されるかによって、まったく違ったメッセージになる可能性というのを考えなければ行けません。

 こうしたことを考える、ひとつの参考になるのが「権威勾配(Authority Gradients)」という言葉です。元々は飛行機業界で使われた言葉とのことで、飛行機の操縦室内部での機長と副操縦士の関係をモデル化したものです。両者の関係があまりに権威主義的だと、副操縦士から適切な情報や提案が機長に伝達される妨げになりますし、一方であまりにフラットだと、それは「決定できない組織」になるわけで、いずれにしても大事故につながるわけです。なので、両者の関係は適切な勾配を保ち、かつそれが両方にとって合意された関係でなければなりません。そのためにも、誰が、どのような役割を持って、どういうふうに発言できるか、という「システム」を決めるための議論は、発言に先行して重要なわけです。

(2)
 と、いうことを前提においた上で、年間20mSvや1mSvという被ばく量について考えて見たいと思います(このあたりは来月出るSTS本の神里さんの章でもうちょっと詳しく説明されると思いますので、そちらも是非ご参照いただければと思います。書誌データなどの詳細が出たらご案内できるかと思います)。もちろん、ここで私が提示する例は、あくまで考える上の参考になるかもしれない議論であって、それでなんらかの回答が出せるというものではありません。
 まず、これらの被ばく量を恐れるのが非常識か、ということを考えます。参考になりそうなのは、平成8年10月の中央環境審議会による「今後の有害大気汚染物質対策のあり方について(第2次答申)」(PDF)です。ここでは(おそらく日本で初めて)放射線被ばくと同様に発がん性の閾値が設定できない(ないか、極めて小さい)物質に関してどのように許容摂取量を決定するべきか、という判断が示されています。
 答申が前提にしているのは「閾値のない物質に係る環境基準の設定等に当たってのリスクレベルについては、別添1の健康リスク総合専門委員会報告のとおり、現段階においては生涯リスクレベル10^(-5)(10万分の1)を当面の目標に、有害大気汚染物質対策に着手していくことが適当である」ということです。また、具体的にはベンゼンについてユニットリスク(環境中に1μg/m^3含まれているときの一生涯の発癌リスク上昇ぶん)を3×10^(-6)から7×10^(-6)と推定しており、ベンゼンの環境基準を「当面」3μg/m^3とすることを求めています。この計算は、結局みこまれるユニットリスクの最低値である3×10^(-6)を取ったと言うことですから、果たして妥当かという疑義はあるような気がしますが、いずれにしても生涯リスクの増加が10^(-5)という桁で管理されるべきだ、という前提は明確です。

 添付資料(PDF)で議論の経緯が分かりますが、これは、他国でのリスク管理が10^(-5)ないし10^(-6)で行われている(オランダでは緊急的には10^(-4)という桁が許されているようですが)ということを参考にしたもののようです。

 また、他の年間リスクとして交通事故が8.5×10^(-5)、水難、火災が8.4×10^(-6)、自然災害、銃器発砲などが10^(-7)の桁のリスクであると説明されています。


 さて、これと引き比べると、ICRPの前提にしたがって(直線閾値無し仮説を採用した場合)年間20mSvの被曝で約0.1%(1×10^(-3))、1mSvで0.005%(5×10^(-5))で、生涯リスクは基本的にこれを寿命ぶん掛け合わせたものだとすればだいたい一桁ないし二桁あがるので、「緊急時でも1×10^(-4)」、という他の化学物質等の規制値と照らし合わせると、ずいぶんと緩い基準である、という議論は当然あり得るかと思います。
 ただ、もし他の化学物質と同等に10^(-5)の桁でリスクを管理しようとしたら、許される追加被ばく量が生涯で2mSv未満ということになってしまうわけで(厳密に1×10^(-5)を達成しようとしたら実に0.3mSvの追加被曝)、これは確かに現実的とは言い難いという意見はあると思います。

 なぜ放射線が他の物質に比べて、高い値になっているかについては、様々な理由があるかと思いますが、基本的には(1)他の危険度の高い物質と違い自然界に比較的高い値で存在しており、またばらつきも大きいこと。(2)一方で、その結果として比較的被ばく量の大きい地域でも、顕著な健康被害が見られないこと。この二つが大きな理由となるでしょう。放射線に関しては、他の物質と同等に、リスクレベルの目標値を決めて許容量を決める、という手法が難しい、ということでもあります。
 一方で、(1)に関しては、すでに述べたように自然界に存在するリスクのと人為的に付け加えられるリスクに同等の評価は出来ない、という議論があり得ます。また、(2)に関してはまさに科学的には未解明の側面があり、議論にどう組み込むか悩むところです。ケララなどの高線量地帯で数mSv程度の追加被ばくでは顕著なガンの増大はない、という結論がある一方で、どうもチェルノブイリの影響に関するトンデル報告やウラン鉱山、医療被曝等で健康影響を示唆する研究もあるようだからです。このあたりは今回は深く踏み込みませんが、少なくとも直線閾値無し仮説そのものは妥当と見なし、ICRPを基準にすることは必要でしょう。
 リスクの推計はいずれにしても概算であり、比較は「桁があっていれば」ぐらいのものだということは押さえるべきでしょうが、いずれにしても、通常の場合でも「放射線のリスク」に関しては他のリスクに比べてかなり緩く設定されているという側面はあり、「基本は避難」というエリアをもう少し拡大するという政策を打ち出す政党があっても、それが著しく不合理であると言うことは言えないように思われます。一方で、現実の福島においては、現在の避難範囲を維持する限りにおいて、一般の人が今後年間20mSvにせまる被ばくを覚悟しないと行けないという状況ではありませんし、避難の必要性は大きくないという考え方もあるかと思います。

 さて、いずれにしてもICRPの勧告では、図にあるように、現存被ばく状況では 1mSv/yから20mSv/yの間で「参考レベル」を決めて被ばく量を低減していき、公衆の被ばく量が最終的に 1mSv/yになるように、計画的に下げていかなければ行けないわけです(図は放射線審議会基本部会(第41回)配付資料より)。


 ということは、まず(計画を立てるわけですから当然)現存被ばく状況の範囲を政府が指定し、そこで「どの程度の期間で、どのように被ばく線量を下げていくか」ということを議論すべきですし、その議論にはなるべく「ステークホルダー(利害関係者)」の意見が多く盛り込まれるような仕組みを作るべきだ、ということになるでしょう。そういった場合「原則XX」といった予断を行政側が持たないのであればそのほうが好ましいと思いますが、他の化学物質と比較すれば、極めて憂慮すべき状態であるということは確認すべきであろうと思われます。いずれにしても様々な立場があることを組み込んだ場の設定を行うべきで、落としどころがまずあって、説得、という枠組みではうまくいかないでしょう。
 現在までの所、現存被ばく状況の範囲について、政府が何らか指定もしていない、という状況が大きな問題でしょう。とりあえず、今できることとしては、現存被ばく状況にある地域を法的に明確にし、その地域に住む人々の『権利』を再確認し(移住のための十全な保障の権利も含めて)、またその被ばく量低減計画等を住民参加で立案することを急ぐべきでしょう。
 ただ、付言すれば、ICRPの勧告に先行して、なにを汚染と見なすかといえば年間1mSv以上の被ばくの可能性があれば「汚染」でないとはいえないでしょうし、その場合、汚染の責任者(それが政府なのか東電なのかは議論があるでしょうが)に十全な保障の責任があると言うことは、確認する必要があるように思われます。





 いずれにしても、考えるべきことも、それぞれの結論の幅も多様になるべき事案ですから、とりあえず結論に飛びつく前に、自分と異なる様々な意見に寛容になってみる、という態度が必要なように思います。…とはいっても、こういうシビアな状況で寛容というのも難しい、ということもあるかとは思いますが…。