そもそも、ここで非難されているアメリカのヴァーモント州は、遺伝子組み換え作物に関する表示についての法律を通しただけであって、別に遺伝子組み換え技術全般の利用を禁止した訳ではない。にもかかわらず「ヴァーモント対科学」というタイトルがついていたりすることに違和感を感じる。人々がある製品を回避しようとする動機は、必ずしも健康へのリスクだけではないのであり、従って健康リスクの問題は表示の是非の問題の一部でしかない。
遺伝子組み換え作物の健康毒性が人を殺したという確たる証拠は確かにない。遺伝子組み換え作物が人を殺しているとすれば、最大の要因はおそらくパテントであり、また換金作物を導入して収量を上げ、経済成長しなければ行けないという国内外からの圧力である。いってみれば「遺伝子組み換えであるか否か」というのは、このグローバルな自由化の問題の代理戦争にすぎない(そういう意味では、モンサント社はたまたま一番火の粉がかかりやすいところにいるだけという面もあるが、喜んで火の粉をかぶりにいっているようにしか見えないこともあるので、あまり同情はできない面もある)。
第三世界の小規模農家は、現金収入が殆どないため、借金をして種子や肥料を購入する。この借金は収穫時に返済される。ほとんど余裕のない自転車操業であり、一度経営的に失敗すると(担保は通常、土地しかない訳で)土地を失って小作になるか、都市スラムに流入する、ということになる。場合によっては自殺に追い込まれることもある。インドのカルナータカ州では自殺が相次いだため、戸主が自殺した場合は家族が借金返済の義務を負わないという法律を成立させたが、これは(予想してしかるべきであると、個人的には思うが)「自殺奨励法」と揶揄される結果を招いた。こうした原因の一つは、種子や肥料を購入しなければいけない状況にある、とヴァンダナ・シヴァなどが主張している。60年代以降に導入された高収量品種は、南アジアの農地の収量を飛躍的に増大させたが、同時に種子や肥料を毎年購入する必要を発生させ、農民の現金経済への依存を高めた。また、高収量の条件は近代的な灌漑にも求められるが、これはミクロ(村落レベル)からマクロ(印パ対立)までの、様々な水利権紛争を発生させることになった。例えば、印パ紛争は一般的には宗教対立と言われるが、その直接的な原因はインダス川流域のダム建設などを巡る対立に求められる。インド国内でも、パンジャブ州では水利権を巡ってヒンドゥ教徒とシク教徒の(厳密には、それぞれの信者が主流である地域間の)対立が発生した。カースト対立と言われるのも、実は水利権闘争が背景にあることも多い。例えば、著名な映画監督マニ・ラトナム脚本で、妻のスハーシニが監督した『インディラ』という映画は、カースト対立を描いた映画であるが、冒頭で、数百年同じ村で同居してきたカーストが水利権を巡って対立し、下層カーストが村から追い出された、という経緯が語られている。基本的には経済の拡大のためのエンクロージャーがコミュニティの対立を産んでいる訳である。
その一方で、インドを含む多くの第三世界政府は従来型のローカルな品種から、国際市場で換金性の高い品種へと農業の転換を促してきた。また、世界銀行のような国際機関も、農業の国際競争力が高まることが外貨を獲得し、債務を返済し、経済を成長させる道だと指導してきた。そのために、ローカルな農業環境が疲弊することには、国内外のエリートたちはほぼ無関心だった訳である。
これらの事情が農民を殺している、ということが、1990年代には様々な形で告発されるようになり、そのオルタナティヴも提唱されるようになってきた。それは、遺伝子組み換え作物を使うことではもちろんないわけで、むしろ古典的な手法への回帰であった。そういった運動の支援の一環として、なるべく国際的な種苗会社の製品を使わない、という選択肢は、少なくとも一定の社会的合理性を持っていると考えられるべきである。
具体的にどういうことか簡単に見ていこう。国際的に知られるインドの環境活動家ヴァンダナ・シヴァは種子を三種類に分割している。第一に「農民の種子(Farmer Seeds)」とは、農民が長い年月をかけて何世代も育て続けている種子である。これらは、農民自身が生み出した品種であると言っていい。次に、「企業の種子(Private Sector Seeds)」であり、これらは高収量であると主張され、企業によって開発され、知的所有権が企業によって保有されている。しかし、シヴァらは、「高収量」というよりは「高反応」なだけであり、収量の維持には水と肥料の投入が欠かせず、この水と肥料への依存が農民を貧困に落ち込ませ、地域に紛争をもたらすのである、と論じている。この中間に「公的な種子(Public Sector Seeds)」がある。これらは、高収量品種の一部であることが多いが、知的所有権は放棄されている。シヴァの主導する有機農法運動体であるナヴダーニャなどは、第一に「農民の種子」の利用を推奨し、状況次第で一時的に「公的な種子」の導入を行う必要も認める。ただし、「公的な種子」は高収量品種であるので、長期的な依存は危険であると論じることが多い。
なお、このあたりは現場では柔軟に対応されている。インドで最も高価に取引されるのはバスマティと呼ばれる種類の品種であるが、これと似たような味で、より収量が高い品種が、インドの大学などによって開発されている(通常、一括してニセバスマティ Pseudo-Basmati と呼ばれている)。ナヴダーニャはこれらについては「公的な種子」であるが、(1)市場価格が比較的高い一方、(2)長茎種であり、肥料を遣り過ぎると倒伏することから、農民自身が肥料の利用を制限するインセンティヴがあるということから、利用を推奨しているという(2003年の現地調査から)。
また、ヴァンダナ・シヴァが拠点としているデラドゥン市は、インドで最も豊かな穀倉地帯である(いわば、インドの魚沼、みたいなイメージらしい)。こういったところで「有機だけでやっていけます」というのは説得力がない、という批判も聞かれる。そこで、気候的に厳しいデカン高原の乾燥地帯で非差別階層むけの支援運動を続けているDDSの事例も見てみたい。ここでは、米や麦のような換金性の高い主力作物という選択を放棄し、主に雑穀類、特にソルガムを植えることを推奨している。これは、雑穀の方が(1)気候の変動や厳しい環境でも収量が安定しており、(2)栄養価も高いことによる。逆に言えば米は大量の水を必要とし、収量が不安定なのである。そういった作物が従来、推奨されてきたのは、単純に市場価格の問題である。DDSでは、現金収入に関しては、マンゴーなどの果実を畑の一部に植えることで補うことを推奨している。
写真は、DDSの運動に参加する農家が保有している種のサンプルである。種は、村落の女性でつくっている会議で管理されており、分けてほしい人がいたら分けあたえる、という方針で管理されている。所謂「コミュニティ・シード・バンク」方式である。種を受け取った農家は、翌年に収穫から種を返すか、あるいはその種をさらに人に分け与えるか、という方式で運営されていることが多い。この村では、60種類ほどの種子(雑穀類、豆類、マスタード類などである)を管理しており、その年の気候や市場を予測して、10種類程度を植える、ということになる。この「多様性」が阻害されるのも、種子の市場化の弊害である。遺伝子組み換え作物の開発には多額の資金がかかるため、企業が提供する品種はしぼられざるをえない。また、農民は自家採種の場合、その種がどういう条件(気候や土地など)でそだったものかという知識と同時に種を蓄えている訳だが、企業から購入する場合、そういった知識は企業から提供される以外に無くなる。特に、識字率の低い地域では、種子の特性を農民が十分理解できる環境を整えるのは困難を極めるだろう。伝統的な農業では開発と生産が一体化し、すべての農民が研究者であり生産者であったのに対して、近代的な農業では、育種の知識は生産現場から分離され、農地は単なる工場となってしまうのである。それが「効率がいいのだ」という議論もあり得るが、全世界で自然に派生してくる様々な品種が人類の食をいかに豊かにしてきたかを考えれば、それが真に効率的なのかは疑問である。
ヒマラヤ山中でナヴダーニャ運動に参加している農村では、バラナージャという農法を採用している。これは、最低でも12種類の品種を同じ農地に植える、というものである。相互に収穫時期は異なるため、収穫の手間はかかるが、これにより同じ面積あたりの総収量は増やすことができるし、生態系として複雑になるため、害虫や病気の発生もある程度抑制することができる。こうした場合も、国際市場で値のつかない雑穀や豆類が活躍する訳である。多様性のための多様性が、土着の技術の中に存在している訳である。もし遺伝子組み換え品種を提供している国際的な種苗会社がこうした地域特性を生かした多様性に適応した品種を供給するとなると、おそらく数万では効かないラインナップを維持しなければならず、開発費を考えてもそれは現実的とは言いがたいように思われる。
※ちなみに、バイオテクノロジーにおける知的所有権の問題については『認知資本主義』(近刊)にも「"継続的本源的蓄積"としての研究開」と題して書かせていただいた。