緑の党については「国際的に見て緑の党が、政党であるだけでなく、私自身も深く関わっているオルタグローバル運動(通常は政党政治とは距離をとることが多い)の一つでもある」という両義性を持っていることなどから、関心とシンパシーを持って眺めてきた。また過去、スウェーデン緑の党の創立メンバーであるペール・ガットン氏や、現在フランス緑の党の代表であるパスカル・デュラン氏などの話を聞く機会も得られたので、この機会に論点をまとめておきたい。なお、私自身は日本の緑の党の党員ではないが、身内が深く関わっていると言うことで、あまり中立的な立場ではないということを加味してお読みいただきたいが、一方でこの文章で日本の有権者一般に「緑の党に投票しよう」ということを呼びかける、という意図があるわけではない。
なぜ日本に緑の党が必要なのだろうか? 脱原発のためだろうか? TPPに反対するためだろうか? そういったことは、緑の党が目指すべきことであろうが、緑の党が現代社会で必要とされる最大の理由ではない。環境政党の方向性について、「日本独自の」を強調するグループもあるが、世界各国に緑の党が広がり、また「グローバル・グリーンズ」という形で政策や基本理念の協調を図ってきたことには、この政治運動が世界各地で人類が共通して直面する課題への対応という側面が重要であり、そこから大きく外れた「独自性」を求めるべきではないだろう。そういう意味で、グローバル・グリーンズの諸理念に(多少のローカライズはありとしても)忠実な、世界の緑の党ネットワークと協調して動ける政党が、日本でも機能することを期待したい。
緑の党は、国際的な「政党離れ」という流れの中で誕生してきた。政党離れには、幾つかの原因が想定される。一つには、労働者階級の生活が先進国で安定してきて、政府に対する直接的な要求を展開しなくてもよくなってきたということがあるだろう。これは、デモやストが少なくなってきたこととも同根であろう。また、これまでは財の再配分をめぐる対立(金持ちの自由か、万人の社会的権利か)に、ほかのすべての政策が追随してきたが、現代社会においては政策的論点は多様化している。この多様化を最も強く体現するポイントが、環境政策である。環境政策が、金持ちを優遇するか、貧乏人を優遇するかという軸では整理できないのは明らかであるし、例えば裕福な企業経営者にも気候問題に熱心な人はいるし、逆もしかりである。また、もう一つ重要な理由に、政治のプロ化が上げられる。これは、『孤独なボウリング』のパトナム等が指摘するように、ローカルなレベルでの政治力学でも「高学歴化」が指摘されているし、中央政界でも、高学歴、もと官僚、あるいは二世議員といった人々が増えており、「普通の人」が目指す職業ではなくなりつつあるということである。日本でも、地盤、看板、カバンといわれるように、選挙への参入障壁は極めて高い。
さて、そうした状況の中で「参加型民主制」ということがいわれ始めた。この言葉自体は、1960年代のアメリカ合衆国で、マイノリティの政治運動が活発化する一方、その運動の方向性の決定権が一部の「マイノリティ・エリート」に独占される状況を批判して、マイノリティの一般学生の間から提起された言葉である。したがって、参加型民主制といった場合、まず目標となるのは政治参加、あるいは「ふつうの人々が政治的意見を表明する権利」の強化を目指す運動であって、屡々混同されるが、定義上は「直接民主制」とは異なるものである。
さて、政治のプロ化と、論点の多様性の欠如が問題であり、それを克服しなければいけない第一の要請が環境問題の深刻化に起因しているとすれば、「緑の党」がこうした問題を先取りして制度化したのはきわめて自然なことである。
各国の緑の党は、例えば議員のローテーション制度(当選は二期まで)や、党員総会の権限の強化などなど、一般の政党に比べて議員が固定化することを避ける制度を重視している。もちろん、日本の政党助成法に定義される「政党」のように、「議員が一定数以上集まったら政党」という定義が本来奇妙なのであり、本質的には「志を同じくする人々が一定数集まり、お金と知恵を少しずつ出し合うことで政党ができ、それが一定の規模に達すると選挙に候補者をたてる」ということが本来の姿だと考えれば、実はこれは自然なことである。日本のように国会議員の数合わせで政党が組織され、また新規参入に極めてたかい参入障壁が課されるということが、この正当の本来の姿を極度に歪め、より多くの人々が支持できる政策を練ることではなく、離合集散を繰り返す政局が政治の中心になる日本の政治のあり方を大きく規定してしまっているであろう。もちろん、例外的に日本共産党は古い政党のあり方を保っている。しかし、一方で環境政党誕生のもう一つの要件である「ソーシャル/リベラル」という軸に回収されない多様性という観点では、共産党は条件を満たす政党ではない(勿論、ソーシャルな要請を厳密に反映する政党の重要性は依然として小さくはないので、このこと事態は共産党の必要性を減じえない)。また、日本を含めた各国で、共産党はどちらかといえばプロ化した官僚的な組織であり、フラットな参加型の組織とは言い難いと考えられている。このことも、ある集団的(共産党的に言えば階級的)利害を前提に高い政策提言能力を維持しようと考えれば、決して間違いではない。しかし、環境問題は、利害集団が想定できるわけでもなく、政策の質の高低を評価できる軸が定まっているわけでもない。例えば、「生物多様性」という言葉をとってみても、その定義は複数共存しており、対策も色々な立場の意見を折衷しながら、ということになる。こうしたことを考えれば、緑の党にとって「参加型民主制」は、単なる倫理的目標ではなく、政策立案プロセスに必須の要請であることがわかる。だからこそ、緑の党は、各国で、議員の固定化、プロ化を廃し、議員団の結論に総会の結論を優先させるプロセスをとっているのである。勿論、国によってこうした仕組みの厳格さには差がある。例えばドイツ緑の党では、法律上の議員任期に関わらず6年までと決められていたが、これは逆に厳格過ぎて様々な不都合を生んだために現在はあまり厳密には守られなくなった、という指摘もある。また、比例代表制の場合はだれを名簿に載せるかの決定権が一義的に党に属するため議員団に対する等の優越が保ちやすいが、小選挙区制をとるフランスなどでは、緑の党のような小党が議員を通すためには候補者のカリスマ性に依存するか、社会党などとの選挙協定に依存するかしなければならないため、党の優越は困難なものとなる。
ただ、いずれにしても最も重要なのは環境問題全般への哲学であるとしても、それをどの程度実現できるかには、そのための参加型の組織構造が必要である、というのがこれまで緑の党の国際ネットワークが培ってきた文化的前提である。また、こうした前提を共有していれば、例えば拝外主義的な主張は共有され得ないことも自明であろう。しかし、たとえば、原発やTPPなどで表面的には同じ意見を持つようにしてもこの「参加型」のプロセスが合意されず、プロ化した議員団と素人である一般有権者のあいだにフラットな意志決定システムが導入できなければ、それは例え数人
「反原発」の議員を割り増しできたとしても、長期的には環境派の敗北に終わり、グローバルな意志決定システムの発展にも乗り遅れることになるであろう。
なぜ日本に緑の党が必要なのだろうか? 脱原発のためだろうか? TPPに反対するためだろうか? そういったことは、緑の党が目指すべきことであろうが、緑の党が現代社会で必要とされる最大の理由ではない。環境政党の方向性について、「日本独自の」を強調するグループもあるが、世界各国に緑の党が広がり、また「グローバル・グリーンズ」という形で政策や基本理念の協調を図ってきたことには、この政治運動が世界各地で人類が共通して直面する課題への対応という側面が重要であり、そこから大きく外れた「独自性」を求めるべきではないだろう。そういう意味で、グローバル・グリーンズの諸理念に(多少のローカライズはありとしても)忠実な、世界の緑の党ネットワークと協調して動ける政党が、日本でも機能することを期待したい。
緑の党は、国際的な「政党離れ」という流れの中で誕生してきた。政党離れには、幾つかの原因が想定される。一つには、労働者階級の生活が先進国で安定してきて、政府に対する直接的な要求を展開しなくてもよくなってきたということがあるだろう。これは、デモやストが少なくなってきたこととも同根であろう。また、これまでは財の再配分をめぐる対立(金持ちの自由か、万人の社会的権利か)に、ほかのすべての政策が追随してきたが、現代社会においては政策的論点は多様化している。この多様化を最も強く体現するポイントが、環境政策である。環境政策が、金持ちを優遇するか、貧乏人を優遇するかという軸では整理できないのは明らかであるし、例えば裕福な企業経営者にも気候問題に熱心な人はいるし、逆もしかりである。また、もう一つ重要な理由に、政治のプロ化が上げられる。これは、『孤独なボウリング』のパトナム等が指摘するように、ローカルなレベルでの政治力学でも「高学歴化」が指摘されているし、中央政界でも、高学歴、もと官僚、あるいは二世議員といった人々が増えており、「普通の人」が目指す職業ではなくなりつつあるということである。日本でも、地盤、看板、カバンといわれるように、選挙への参入障壁は極めて高い。
さて、そうした状況の中で「参加型民主制」ということがいわれ始めた。この言葉自体は、1960年代のアメリカ合衆国で、マイノリティの政治運動が活発化する一方、その運動の方向性の決定権が一部の「マイノリティ・エリート」に独占される状況を批判して、マイノリティの一般学生の間から提起された言葉である。したがって、参加型民主制といった場合、まず目標となるのは政治参加、あるいは「ふつうの人々が政治的意見を表明する権利」の強化を目指す運動であって、屡々混同されるが、定義上は「直接民主制」とは異なるものである。
さて、政治のプロ化と、論点の多様性の欠如が問題であり、それを克服しなければいけない第一の要請が環境問題の深刻化に起因しているとすれば、「緑の党」がこうした問題を先取りして制度化したのはきわめて自然なことである。
各国の緑の党は、例えば議員のローテーション制度(当選は二期まで)や、党員総会の権限の強化などなど、一般の政党に比べて議員が固定化することを避ける制度を重視している。もちろん、日本の政党助成法に定義される「政党」のように、「議員が一定数以上集まったら政党」という定義が本来奇妙なのであり、本質的には「志を同じくする人々が一定数集まり、お金と知恵を少しずつ出し合うことで政党ができ、それが一定の規模に達すると選挙に候補者をたてる」ということが本来の姿だと考えれば、実はこれは自然なことである。日本のように国会議員の数合わせで政党が組織され、また新規参入に極めてたかい参入障壁が課されるということが、この正当の本来の姿を極度に歪め、より多くの人々が支持できる政策を練ることではなく、離合集散を繰り返す政局が政治の中心になる日本の政治のあり方を大きく規定してしまっているであろう。もちろん、例外的に日本共産党は古い政党のあり方を保っている。しかし、一方で環境政党誕生のもう一つの要件である「ソーシャル/リベラル」という軸に回収されない多様性という観点では、共産党は条件を満たす政党ではない(勿論、ソーシャルな要請を厳密に反映する政党の重要性は依然として小さくはないので、このこと事態は共産党の必要性を減じえない)。また、日本を含めた各国で、共産党はどちらかといえばプロ化した官僚的な組織であり、フラットな参加型の組織とは言い難いと考えられている。このことも、ある集団的(共産党的に言えば階級的)利害を前提に高い政策提言能力を維持しようと考えれば、決して間違いではない。しかし、環境問題は、利害集団が想定できるわけでもなく、政策の質の高低を評価できる軸が定まっているわけでもない。例えば、「生物多様性」という言葉をとってみても、その定義は複数共存しており、対策も色々な立場の意見を折衷しながら、ということになる。こうしたことを考えれば、緑の党にとって「参加型民主制」は、単なる倫理的目標ではなく、政策立案プロセスに必須の要請であることがわかる。だからこそ、緑の党は、各国で、議員の固定化、プロ化を廃し、議員団の結論に総会の結論を優先させるプロセスをとっているのである。勿論、国によってこうした仕組みの厳格さには差がある。例えばドイツ緑の党では、法律上の議員任期に関わらず6年までと決められていたが、これは逆に厳格過ぎて様々な不都合を生んだために現在はあまり厳密には守られなくなった、という指摘もある。また、比例代表制の場合はだれを名簿に載せるかの決定権が一義的に党に属するため議員団に対する等の優越が保ちやすいが、小選挙区制をとるフランスなどでは、緑の党のような小党が議員を通すためには候補者のカリスマ性に依存するか、社会党などとの選挙協定に依存するかしなければならないため、党の優越は困難なものとなる。
ただ、いずれにしても最も重要なのは環境問題全般への哲学であるとしても、それをどの程度実現できるかには、そのための参加型の組織構造が必要である、というのがこれまで緑の党の国際ネットワークが培ってきた文化的前提である。また、こうした前提を共有していれば、例えば拝外主義的な主張は共有され得ないことも自明であろう。しかし、たとえば、原発やTPPなどで表面的には同じ意見を持つようにしてもこの「参加型」のプロセスが合意されず、プロ化した議員団と素人である一般有権者のあいだにフラットな意志決定システムが導入できなければ、それは例え数人
「反原発」の議員を割り増しできたとしても、長期的には環境派の敗北に終わり、グローバルな意志決定システムの発展にも乗り遅れることになるであろう。